2-1.大阪城 外堀の外

2-1.外堀の外

2-1-1.豊臣大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)

この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿を復元したものです。

豊臣時代の大坂城三の丸は、豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598)に大坂城の防御強化のために造られました。しかし、慶長19年(1614)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。

平成元年(1989)の大阪府立女性総合センターの建設にともなう発掘調査で、再び姿を現しました。地表下約2mのところに東西21mにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、今まで見つかった豊臣時代の石垣の中で最も残存状態の良いもので、当時の大坂城の面影を今に伝えています。

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ドーンセンターの北側に復元されています。

2-1-2.豊臣時代石垣遺構

この石垣は、昭和五十年二月本社屋建設工事の際、敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部を移築したもので、その大部分は本社屋東北隅に移築復元してあります。

大阪府、市教育委員会の緊急学術調査の結果、石材は全て大阪城の現存する石垣と同様に、生駒・六甲・笠置など近郊のほか、小豆島・犬島・与島・庵治・青木など瀬戸内産の花崗岩であり、諸大名の家紋などを示す刻印も見つかりました。そしてこの遺構が元和六(1620)年の大坂城再築のころ城北の総堀に見立てた旧大和川と淀川との合流点付近の、旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定されました。

石垣は地下約4メートル、海抜2.35~2.80メートルの天端(てんば:擁壁などの構造物の各部の最頂部)から下へ3~5段、根石からの高さ1.4~1.8メートルで、北面して積まれ、東西にほぼ70メートル余連続して残存していました。

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東北隅の石垣。寝屋川の対岸から見ることができます。

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日本経済新聞社大阪本社の裏手(南側)にもあります。

2-1-3.豊臣氏大阪城石垣遺構

これまでこの辺り一帯は、豊臣秀吉が築城した大坂城の三の丸の跡地と言われてきました。しかし、平成15年の(公財)大阪府文化財センターの調査により、三の丸の理解に大きな変更が迫られました。現在は、京橋口馬出し曲輪の跡地と想定されています。

この曲輪は、秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598年)に、第四期工事として城郭の防御力強化のために作られたようです。作られた石垣は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣による講和条件で埋め立てられてしまい、当時の様子を完全にうかがうことはできませんが、周辺の建設にともなう発掘調査で再び姿を現し、一部ではありますが、当時の面影を垣間見ることができるようになりました。石垣は生駒山系、六甲山系から運ばれた花崗岩が使われ、自然石の形を利用した『野面積』という積み方で、現存の大阪城とは趣が異なります。

『金城見聞録』所収の古図によると、この曲輪は「サウノ丸」と呼ばれ、内部には豊臣秀頼の妻となる千姫の輿入れの際、祖父・徳川家康によって付けられた江原与右衛門の屋敷がありました。「サウノ丸」は別の絵図には「像之丸」と書かれ、徳川家康から豊臣秀頼に贈られた像を飼っていた場所であった可能性があります。(追手門学院小学校前に掲示されている「豊臣大坂城ゆかりの地」より)

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追手門学院小学校の西側には「おうてもん石垣ギャラリー」が設けられており、外から覗くことはできます。

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中に入ることができるのは、学校関係者に限られるようです。

2-1-4.筋鉄門跡【すじがねもんあと】

 元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北の外曲輪(三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入り口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪後に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。

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2-1-5.旧砲兵工廠【こうしょう】化学分析場(大阪砲兵工廠の鉄材残滓【ざんし】)

国内最大の規模を持つ軍事工場、大阪砲兵工廠の数少ない遺構の一つで、大正8年(1919)に完成した。設計者は当時陸軍の技師として第四師団や砲兵工廠関係施設の設計にたずさわった建築家置塩章【おしおあきら】である。赤レンガを用いたネオ・ルネサンス風の2階建てで、ここで兵器の研究開発や化学実験が行われたとみられる。第二次世界大戦の空襲による破壊をまぬがれ、戦後は国の庁舎、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使われた。建物南の園路沿いに残る巨大な鉄の塊も砲兵工廠時代の遺物で、溶鉱炉から取り出された鉄のかすと考えられている。

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2-1-6.桃園【とうえん】

 

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奥に見えるのは桜。桃は、ピンクと白があり、1本の木にピンクと白が混在しているものがあります。

2-1-7.砲兵工廠荷揚げ門跡【ほうへいこうしょうにあげもんあと】

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大阪城ホール裏の第二寝屋川沿いにあります。

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2-1-8.砲兵工廠跡(御蔵曲輪跡)【ほうへいこうしょうあと(おくらくるわあと)】

大阪砲兵工廠は大砲生産を中心とした近代日本最大級の軍事工場で、明治3年(1870)この付近に設置された造兵司(ぞうへいし)を発祥とする。民需品も手がけるなどして大阪における近代工業化の推進役を担い、敷地はここを中心に現在の大阪ビジネスパーク一帯、森の宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がった。昭和20年(1945)の空襲によって壊滅し、残っていた元本館の建物は大阪市により昭和56年に撤去され、跡地に大阪城ホールが建てられた。江戸時代、この付近一帯は「御蔵曲輪(おくらくるわ)」呼ばれ、年貢米などを備蓄する幕府の蔵が立ち並んでいた。

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2-1-9.大阪社会運動顕彰塔【おおさかしゃかいうんどうけんしょうとう】

この顕彰塔は日本民族の真の歴史を創造した、労働者・農民らが幾世紀にわたり、支配の圧政に抗して生活と権利を守り、社会解放をめざして闘いつづける歴史の塔であります。

有史以来敗戦まで支配者は自由・平等・解放をねがいもとめる民衆のあらゆる社会解放運動を反逆者・国賊とそしり、弾圧してきました。先駆者たちはその激しい嵐の道を身命を賭けて、窮迫に耐え、抵抗し闘いぬき、ために多くの先覚者は拷問、奸計により獄死・病没し雄志むなしく犠牲となりました。

その尊い偉大な功績を顕彰し、その崇高な遺志を伝承、後続世代のわれわれが、大衆とともに真の自由・解放・平和をめざして闘い進むことを宣誓する塔であります。

この塔は、1960年大阪地方統一メーデー大会で決議され、1966年大阪のすべての労働者・農民・革新政党・民主団体が有識・有志の協力のもとに総結集し、その拠金によって建設され、1970年11月竣工・序幕祭典し、以来毎年10月15日合祀祭典を挙行します。

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2-1-10.算用曲輪(杉山)【さんようぐるわ すぎやま】

 玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」「算用場」などとよばれていた。名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行われた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。

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2-1-11.城中焼亡埋骨墳【じょうちゅうしょうぼうまいこつふん】

 慶応4年(明治元年、1868)1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大坂城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害したという。新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑とたたえて、同年7月にこの石碑を建立した。のちにこの碑は「残念塚」・「残念さん」とよばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。

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2-1-12.城南射撃場跡

明治維新後に大阪城を管轄した陸軍によって設置された実弾射撃の訓練場跡地である。大阪城南外堀の外縁部にあたるこの付近から南にかけての一帯は、幕末に設けられた調練施設「講武所(こうぶしょ)」の跡地を引き継ぐ練兵場であり当初の射撃場は練兵場の一部だったと考えられる。昭和7年(1932)には、それまでの露天を改め、コンクリートでおおわれた東西に長い巨大なトンネル式の専用施設がつくられた。第二次世界大戦後は陸上自衛隊の射撃練習場として使われたが、昭和43年に撤去された。

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南外堀と南側の観光バスの駐車場の間にひっそりあります。

2-1-13.教育塔

昭和9年(1934)9月21日に日本列島を襲った室戸台風は、午前8時ごろに暴風や高潮が大阪を襲い、未曽有の被害をもたらした。特に児童生徒の多くが学校内で犠牲となり、またこれを救おうと奮闘した教職員も命を落とし、社会に深い悲しみを与えた。これを機に同11年、不慮の災害や事故によって亡くなった教育関係者や児童生徒の霊をなぐさめるために設けられた施設が教育塔である。外観は崇高な教育精神をあらわし、正面にはめこまれた2枚のレリーフ画は、子どもたちに対する教育者の情熱あふれる姿勢とひたむきな愛情をあらわす。

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2-1-14.ラジオ塔

日本におけるラジオ放送の黎明期、ラジオの普及を目的に各地の公園や広場などに設置された大衆向けラジオ聴取施設をラジオ塔という。大阪城公園のラジオ塔は昭和13年(1938)の設置で、大阪市内では天王寺公園昭和5年、全国初)・住吉公園(昭和8年)に続く。コンクリート製で、屋根は灯篭に似た宝形造【ほうぎょうづくり】、胴部は角柱形である。スピーカー収納部の窓は四角でなく矢羽形となっているところが特徴で、鉄格子もV字である。ラジオ塔は全国に広まったが、第二次世界大戦後は小型ラジオが普及し、やがて歴史的な役割を終えた。

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2-1-15.生国魂神社お旅所跡【いくくにたまじんじゃおたびどころあと】

 生国魂神社の歴史を文献資料でたどると、「日本書紀孝徳天皇即位前期(六四五)に「生国魂社の樹をきりたまふ・・・」とあるのが初出であり、これは難波宮造営のためと考えられている。また「天文日記」(1436~54)の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社のあったことがわかる。難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあったことが知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。
 その後豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築した。当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれたという。
 この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、夏祭りの渡御祭に用いられた。

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2-1-16.大手前の馬場

大阪城の正面を大手口といい、大手前と呼ばれる手前一帯は江戸時代「馬場」と呼ばれていた。範囲は上町筋の西、今の大阪府警察本部や大阪府庁の敷地付近にも及ぶ。馬場は小高い丘のある芝生の広場で、大坂城在番の部隊が交代する際の駐留場所として使われたほか、市民に開放され憩いの場所となっていた。幕末には軍事的緊張が高まり、同地に土塁が築かれたり兵舎が建てられたりしている。明治維新を経て大正13年(1924)、大阪市は陸軍からこの付近一帯を借り受けて大手前公園を開設した。これが現在の大阪城公園の出発点である。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣