2-3.大阪城 二の丸への出入口と二の丸

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

2-3-1.京橋口

 大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

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2-3-2.京橋口枡形の巨石(肥後石)

 京橋口枡形のうち、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2位の巨石「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。

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肥後石。

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京橋口2番石。

2-3-3.こま犬

 この一対の「こま犬」は中国・明の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼【ゆうぎ】を深める象徴となっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国中日本国特命全権大使の筆になる。

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2-3-4.京橋口定番屋敷跡【きょうばしぐちじょうばんやしきあと】

 江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。敷地内には公務を行う表御殿、家族が暮らす奥御殿が建ち、家臣の詰める小屋などもあったが、いずれも明治維新の大火によって焼失し、跡地には軍により士官学校の施設がつくられた。

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2-3-5.「ばけもの屋敷」跡

 伏見櫓の内側一帯には、江戸時代のはじめ金奉行の役宅が置かれていたが、やがて空き地となり、いつしか「ばけもの屋敷」とよばれるようになった。大阪城を管理する重職である京橋口定番の屋敷(公邸)はこの南側に隣接しており、代々の定番にはここに住み着く妖怪がとりつくと恐れられたが、享保年間(18世紀はじめ)に着任した戸田大隅守という大名が退治したと伝える。

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2-3-6.伏見櫓跡

徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓のうち、唯一3層だった櫓で(ほかの櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道から望む優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。

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2019年には、「サクヤルミナ」というイベントが催されており、そのイベントで登場するキツネの像が設置されています。

2-3-7.西仕切門跡

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御座船乗り場の向かい側に残されています。

2-3-8.東仕切門跡

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青屋門から入って右側の駐車スペースにあります。

2-3-9.青屋門

 青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋門はその枡形【ますがた】の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画の事で、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出桝形【でますがた】だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

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2-3-10.人面石

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青屋門から入り左に。内堀に沿って雁木坂に向かって少し進むとこの石垣が見えます。

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鬼門の方角(本丸の東北)に、災い除けのため人間の顔の形をした石を積み込んだと言われているそうです。

2-3-11.市正曲輪【いちのかみくるわ】 梅林

 現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東一正勝元【ひがしいちのかみかつもと】の屋敷がここにあったと伝えることから「一正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番【かばん】・中小屋加番・雁木坂【がんぎざか】加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた。

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この梅林は、北野高校の100周年記念として同窓生から梅が寄贈され、昭和49年に開園されました。

2-3-12.雁木坂【がんぎざか】

 大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段(雁木)だったことから雁木坂とよばれ、さかを上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以降の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。

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2-3-13.雁木坂門跡

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わずかに石が少しだけ残されています。

2-3-14.石山本願寺と大阪(大坂)

 明応5年(1496)、本願寺第8代宗主蓮如摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文(御文章)』とされている。
 この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
 天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
 大坂(石山)本願寺寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいた。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
 やがて本願寺織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591)に京都へ移転した。
 一方、秀吉は大坂(石山)本願寺寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
 大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大坂城公園の辺りがその遺構と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。

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2-3-15.蓮如上人袈裟がけの松【れんにょしょうにんけさがけのまつ】

 豊臣秀吉大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎を作り(大坂御坊)今は切り株だけになっているこの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。

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2-3-16.玉造口定番屋敷跡【たまつくりぐちじょうばんやしきあと】

 江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火で焼失。跡地には軍事病院が建てられ、明治10年(1877)に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。

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2-3-17.艮櫓跡【うしとらやぐらあと】

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玉造口から入った正面の右奥がその場所のようです。

2-3-18.巽櫓跡【たつみやぐらあと】

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玉造口から入ってすぐの右手前がその場所のようですが、現在は通行止めにされており、その場所にいくことはできません。

2-3-19.玉造口【たまつくりぐち】

 大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口【おおてぐち】や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓【たもんやぐら】が建っていた。多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱に伴う大火によって焼失し、その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が撤去された。焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両側の石組み以外は旧観をとどめていない。「玉造」の地名は古代にまでさかのぼり、古墳時代、勾玉【まがたま】・管玉【くがたま】など装飾用の石を作った

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2-3-20.一番櫓【いちばんやぐら】

 二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は最も東に位置することから「一番櫓」という。外側にあたる東面と南面を中心に窓が16あるほか、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ、玉造口【たまつくりぐち】に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃することができた。東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落としも設けられている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)と考えられ、戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により、創建後の主な修復は万治年間(1658~61)・寛文8年(1668)・天保3年(1832)の3度だったと推定される。中でも天保3年は解体を伴う大規模なもので、建物下の栗石【ぐりいし】の間から当時のものとみられる衣類が検出されている。面積は1階が167.98平方メートル、2階が約96.31平方メートル、高さは14.3メートルである。なお、一番から七番までの櫓のうち、現存するのはこの一番櫓と六番櫓のみである。

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二番櫓、三番櫓、四番櫓は焼失し、櫓跡のみがある。

2-3-21.二番櫓跡

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2-3-22.東大番頭小屋跡(衛戍監獄跡)【ひがしおおばんがしらごやあと(えいじゅかんごくあと)】

江戸時代、徳川将軍直属部隊の一つである大番は1組50騎の計12組からなり、各組は部隊長にあたる大番頭に率いられ、2組が1年交替で大坂城に在番し本丸の警備を主務とした。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西にわけられて置かれ、大番頭には特に広い敷地が与えられた。ここは東大番頭の小屋跡にあたり、大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が立ち並んでいた。いずれの建物も明治維新の大火で焼失し、跡地は陸軍の刑務所(衛戍監獄)となり、戦時中には第4師団司令部が置かれた。

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2-3-23.豊国神社

豊臣秀吉、秀吉の子秀頼、秀吉の弟秀長をまつる。秀吉は慶長3年(1598)に死去すると神格化されて「豊国大明神」となり、京都をはじめ各地に豊国社が建てられたが、豊臣家滅亡とともに姿を消した。復活の契機となったのは明治維新で、慶応4年(=明治元年、1868)に大阪へ行幸した明治天皇が再興を命じ、大阪では京都の豊国神社の分社として、明治12年に現在の大阪市中央公会堂の場所に創建された。大正元年(1912)には現在の大阪市役所の場所、昭和36年(1961)には大阪城二の丸南の現在地に移転した。同社の名称は、京都の豊国神社から独立した大正9年以降、豊国神社となった。

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2-3-24.豊臣秀吉銅像

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2007年に建立。

2-3-25.秀石庭【しゅうせきてい】

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見る角度によって、庭全体に石が点在しているようにも見えるし、奥に固まっているようにも見える不思議な庭です。

秀石庭の名前は、「秀吉」と「石山本願寺」の一文字ずつを取って名づけられたそうです。昭和47年に、重森三玲【しげもりみれい】によって作庭されました。

2-3-26.東大番衆小屋跡【ひがしおおばんしゅうごやあと】

大坂城徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営)があった。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交代で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備などをつとめた。大番の職は幕末の慶応3年(1867)5月に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失した。

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2-3-27.三番櫓跡

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2-3-28.四番櫓跡

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2-3-29.五番櫓跡

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2-3-30.西大番衆小屋跡【にしおおばんしゅうごやあと】

大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊「大番」の小屋(宿営)が置かれていた。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交代で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋にて起居した。西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ重なる。慶応4年(=明治元年、1868)1月に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大番衆小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。

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2-3-31.石山本願寺推定地

 明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
 天文日記によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えれらる。
 その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
 石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の街並みの原型となったと考えられる。
 その十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して再び大規模な土木工事が行われた。
 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

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左側は修道館。

2-3-32.六番櫓【ろくばんやぐら】

 二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」という。外側にあたる南面と西面に石落としを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に26、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風【はふ】を飾る東西の懸魚【げぎょ】のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が224.16平方メートル、2階が約133.43平方メートル、高さは15.4メートルである。

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2-3-33.南仕切門跡・太鼓櫓跡【みなみしきりもんあと・たいこやぐらあと】

 二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にたいこやぐrあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形【そうぎょう】の役人が交替で詰め、彼らは香【こう】をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らしたいずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失した。

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2-3-34.西大番頭小屋跡【にしおおばんがしらこやあと】

江戸時代、徳川将軍直属の部隊の一つである大番は、1組50騎の計12組からなり、それぞれ部隊長である大番頭【おおばんがしら】に率いられ、うち2組が1年交代で大坂城本丸の警備にあたった。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西にわけられて置かれ、大手口枡形の南東側となるこの一帯には西大番頭の小屋があった。敷地には大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が立ち並んでいた。明治維新後、跡地には陸軍関連施設が建てられ、その頃の門柱や左右の塀がわずかに残る。

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2-3-35.七番櫓跡

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七番櫓跡は、大阪城の管理事務所の敷地内にあり、中から見ることはできません。

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天気が良く風も穏やかな日は、この角度から見る櫓跡と6番櫓は、内堀に移る姿が、とても美しい!

2-3-36.西ノ丸仕切門

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西ノ丸庭園の入り口がそれ。

2-3-37.大手門【おおてもん】

 城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

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左端が千貫櫓、その右が多聞櫓、その右が大手門。

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大手門左側の石垣。徳川時代に3期に分けて石垣は作られました。この石垣は、初期に組まれたので、石の形や積み上げ方が、後期に組まれた下記の大手門右側の石垣に比べ不揃いです。

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大手門右側の石垣。上記の左側に比べ石が揃っている。石の積み方も、初期より後期にかけて、スキルが上達していることが伺えます。

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一見不可能にしか見えない継手の場所。

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一見不可能にしか見えない継手。

2-3-38.大手口枡形の巨石

 枡形とは城の主要な出入り口に設けられた四角い区画の事で、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩に伴って強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも砕石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のもではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠弘が築き、のちに筑後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

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大手見附石と大手二番石は、その石の模様と石の膨らみから、一つの石を二つに分けたものと思われる。

小さい丸で囲った黒い模様が二つの石で同じ形になっています。

2-3-39.市多聞跡【いちたもんあと】

 江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交代で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。

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2-3-40.多聞櫓【たもんやぐら】(続櫓【つづきやぐら】、渡櫓【わたりやぐら】)

 大手口桝形の石垣の上に立つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に創建された。土塁や石垣上に築かれた長屋上の建物を一般に多聞(多門)とよぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器を蓄えることができ枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。

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続櫓。

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渡櫓。

2-3-41.千貫櫓【せんがんやぐら】

 大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。

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西ノ丸庭園内から見た千貫櫓。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣