熊野街道 馬目王子~中村王子

  平安時代から白川上皇鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。

 熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。

 この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。

23.馬目王子

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左側に三角形の空き地が現れます。ここが馬目王子跡

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現在、馬目王子は波太神社に合祀されており、ご神体の丸石は山中神社に祀られているとのこと。

64号線は雄ノ山峠越えとなるため、長い上り坂。結構ハードですが、まだ序の口。

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ひときわ大きな石碑が左に見えます。田中武八翁とは、明治7年に山中村戸長となり、「山中分校創設」「地福寺本堂建立」「紀州街道大改修」等、村に多大な功績を残した人物。

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少し進むと行く手が二又に。熊野街道は左側。

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時代と共に街道の名前は変わり、江戸時代には紀州街道と呼ばれていました。

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少しの間、風情のある石田畳の道が続きます。

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マンホールのふたも、石畳に似せたもの。なかなかやるの!

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古い町並みに、「おしゃれ」があったりします。

f:id:s_tenpa:20210107234704j:plain前の電信柱を左に曲がると地福寺。

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地福寺本堂。その横に子安地蔵尊があります。

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子安地蔵尊。ここに「地蔵堂王子」のご神体が子安地蔵として祀られているとのこと。

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旧庄屋屋敷。

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左に、山中神社に入る小道が。

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山中神社。

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ここに「馬目王子」のご神体である丸石が祀られているとのこと。

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「とうふや」という旅籠(はたご)跡。建物は残っていません。

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山中宿本陣跡地。建物は建て替えられているが、土塀は当時の面影を残しています。

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 山中渓駅を横目に見ながら進みます。

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山中関所跡。看板の後ろに二つの石が転がっていますが、一つには「山中関所跡」の文字が。元々、右の囲みの中に置かれていたものが、何らかの災害で倒れたのかも。

 

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大阪府から和歌山県に入ります。

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日本最後の仇討ち場。境橋。

日本には、「最後の仇討ち場所」が5か所あるそうです。①明治13年に臼井六郎が行った仇討ち、②明治4年に本多政均の旧臣12名が行った仇討ち、③明治4年下田恒平が行った仇討ち、④文久3年(1863年)広井岩之助が行った仇討ち。⑤明治4年に村上天谷の遺子ら7名が行った仇討ち。

①は本当に最後に行われた仇討ち。②は「敵討禁止令」が出される前に行われた最後の仇討ち。③は討手が処罰されず称賛された最後の仇討ち。④は許可を得た最後の仇討ち。⑤は「敵討禁止令」が出されるきっかけとなった最後の仇討ち。

この境橋は④。よーわからん。

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しばらく進むと、道の右側に側道が現れ、側道の端に矢印の看板が。

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直進すると山口王子。側道を進むと中山王子。

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踏切を渡ったところが中山王子。

24.中山王子

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紀伊国に入って最初の王子社。この付近は「雄の山中」と言われたところから、藤原頼資(よりすけ)の日記では「山中王子」と書かれていたようです。それがどこかで「中山王子」になったようです。

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線路の右側を、次の踏切まで進み、そこから元の64号線に戻ります。

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軒先に「熊野古道」の提灯。道が正しいことがわかり、ほっとします。

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64号線を進み、雄ノ山峠を越え下りはじめると、左側に「峠の不動明王」。熊野詣の際、この不動明王にお祈りして峠を越えていったようです。

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ヘアピンカーブを過ぎたところに、右側に「幸福地蔵」。由来などは不明ですが、幸せになれるのなら、と、手を合わせました。

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64号線をもう少し下ると、左手に県道に入る道が。その県道を進むとすぐに山口王子があります。

25.山口王子

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この地が「雄の山口の湯屋」と言われていたところから、「山口王子」ななったようです。

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県道を進むと、右の壁に小さな看板が。「熊野古道→、山口神社へ→」と書かれているので、その電信柱のところで右に。

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しばらく細い道を進むと鳥居が。山口神社と書かれていますが、本殿は500m先。

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この鳥居のところで左折。

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7号線にぶつかると、前のカーブミラーに小さな「熊野古道↓→」の看板。なので、ここで右折。しかし、この看板はなかなか見つけられないのでは?

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少し進むと「熊野古道」の提灯。ありがたいです。

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もう少し進むと右手に「熊野古道」の提灯と、案内板。左に曲がって300m先が「川辺王子跡」の文字。なので、ここで左折。

26.川辺王子

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 川辺王子の場所は諸説があります。大阪府都市整備部交通道路室で作成されたマップでは、この地が川辺王子とされていますが、次の中村王子跡の近くの「力待(りきし)神社」という説もあり、そちらにも「川辺王子跡」の碑があります。川の氾濫等により、時代により熊野参詣道が異なったためと思われます。

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川辺王子からは田んぼの中を進みますが、道が入り組んでおり、どの道が正しいのか非常に不安になりますが、地面に「熊野古道」の印があり、それを頼りに進みます。

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田んぼを抜けると「熊野古道」の提灯がつるされた「神波(こうなみ)自治会館」を右に曲がります。

27.中村王子

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田んぼの脇に「中村王子」の看板。今は「楠本」と呼ばれているが、「楠本」の古い地名が「中村」であったため「中村王子」と呼ばれているとのこと。

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以下は今後更新予定。