大坂城の四季 梅・桃・桜
・梅
2021年1月28日 寒紅。
つぼみがふくらみ始めています。
2021年1月28日 月の桂。こちらもつぼみがふくらみ始めていますが、寒紅ほどではありません。
ただ、雁木坂前の入り口横の、南高などはまだまだ固いつぼみのままです。
2021年1月30日 寒紅。
いくつかのつぼみが開き始めています。
2021年1月30日 月の桂。
つぼみが開くのはもうちょっと。
2021年2月1日 寒紅。
少しづつ、華やかになってきています。
2021年2月1日 月の桂。
こちらは、もう少し。
2021年2月8日の梅林全景。
満開にはまだまだ。
2021年2月8日 寒紅。かなり開いてきています。
2021年2月8日 月の桂。一気に開きました。
2021年2月11日 寒紅。
2021年2月11日 月の桂。
この日は祝日ということもあり、かなりの人出。鶯もこの「月の桂」に何羽かが飛んできており、カメラマンが群がっていました。
2月14日 梅林の全景。
2月16日 梅林の全景。
2月16日 お堀側の入り口前の南高も花が開いてきました。
2月22日 梅林の全景。16日に比べて手前の白い梅が増えています。
2月28日 梅林の全景。ピンクが少し減り始めているようです。
3月1日 梅林の全景。白もピークを過ぎているようです。
3月11日 梅林の全景。すっかり華やかさはなくなり、わびさびの世界に。
・桃園
3月1日 桃園。少しつぼみは見かけますが、もう少し。
3月11日 桃園。梅に代わって、桃が開き始めました。
3月11日 つぼみもまだありますが、13日、14日の週末が見ごろでは?
3月15日 桃園。木によって満開。
・桜
3月15日 桜。つぼみがふくらんできています。ここから一気に咲いていくと思います。
3月16日 桜。
3月16日 桜。ソメイヨシノはほとんどがつぼみですが、少しだけ開き始めています。今週末辺りには、かなり開くのでは?ただ、土日は雨模様。残念!
3月18日 どんどん開いていますが、いまだ西ノ丸庭園の標本木ではまだ5輪咲いておらず、開花宣言はまだ。
3月18日 記念樹の森の「みどりのリズム像」周辺。ここら辺の桜はまだまだ。ここを定点観測します。
3月25日 1週間しか経っていませんが、あっという間に満開!
3月25日 この土日がピーク。ただ、日曜日がまたまた雨模様!悲しい!
熊野街道 馬目王子~中村王子
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
23.馬目王子
左側に三角形の空き地が現れます。ここが馬目王子跡。
現在、馬目王子は波太神社に合祀されており、ご神体の丸石は山中神社に祀られているとのこと。
64号線は雄ノ山峠越えとなるため、長い上り坂。結構ハードですが、まだ序の口。
ひときわ大きな石碑が左に見えます。田中武八翁とは、明治7年に山中村戸長となり、「山中分校創設」「地福寺本堂建立」「紀州街道大改修」等、村に多大な功績を残した人物。
少し進むと行く手が二又に。熊野街道は左側。
時代と共に街道の名前は変わり、江戸時代には紀州街道と呼ばれていました。
少しの間、風情のある石田畳の道が続きます。
マンホールのふたも、石畳に似せたもの。なかなかやるの!
古い町並みに、「おしゃれ」があったりします。
前の電信柱を左に曲がると地福寺。
地福寺本堂。その横に子安地蔵尊があります。
子安地蔵尊。ここに「地蔵堂王子」のご神体が子安地蔵として祀られているとのこと。
旧庄屋屋敷。
左に、山中神社に入る小道が。
山中神社。
ここに「馬目王子」のご神体である丸石が祀られているとのこと。
「とうふや」という旅籠(はたご)跡。建物は残っていません。
山中宿本陣跡地。建物は建て替えられているが、土塀は当時の面影を残しています。
山中渓駅を横目に見ながら進みます。
山中関所跡。看板の後ろに二つの石が転がっていますが、一つには「山中関所跡」の文字が。元々、右の囲みの中に置かれていたものが、何らかの災害で倒れたのかも。
日本最後の仇討ち場。境橋。
日本には、「最後の仇討ち場所」が5か所あるそうです。①明治13年に臼井六郎が行った仇討ち、②明治4年に本多政均の旧臣12名が行った仇討ち、③明治4年下田恒平が行った仇討ち、④文久3年(1863年)広井岩之助が行った仇討ち。⑤明治4年に村上天谷の遺子ら7名が行った仇討ち。
①は本当に最後に行われた仇討ち。②は「敵討禁止令」が出される前に行われた最後の仇討ち。③は討手が処罰されず称賛された最後の仇討ち。④は許可を得た最後の仇討ち。⑤は「敵討禁止令」が出されるきっかけとなった最後の仇討ち。
この境橋は④。よーわからん。
しばらく進むと、道の右側に側道が現れ、側道の端に矢印の看板が。
直進すると山口王子。側道を進むと中山王子。
踏切を渡ったところが中山王子。
24.中山王子
紀伊国に入って最初の王子社。この付近は「雄の山中」と言われたところから、藤原頼資(よりすけ)の日記では「山中王子」と書かれていたようです。それがどこかで「中山王子」になったようです。
線路の右側を、次の踏切まで進み、そこから元の64号線に戻ります。
軒先に「熊野古道」の提灯。道が正しいことがわかり、ほっとします。
64号線を進み、雄ノ山峠を越え下りはじめると、左側に「峠の不動明王」。熊野詣の際、この不動明王にお祈りして峠を越えていったようです。
ヘアピンカーブを過ぎたところに、右側に「幸福地蔵」。由来などは不明ですが、幸せになれるのなら、と、手を合わせました。
64号線をもう少し下ると、左手に県道に入る道が。その県道を進むとすぐに山口王子があります。
25.山口王子
この地が「雄の山口の湯屋」と言われていたところから、「山口王子」ななったようです。
県道を進むと、右の壁に小さな看板が。「熊野古道→、山口神社へ→」と書かれているので、その電信柱のところで右に。
しばらく細い道を進むと鳥居が。山口神社と書かれていますが、本殿は500m先。
この鳥居のところで左折。
7号線にぶつかると、前のカーブミラーに小さな「熊野古道↓→」の看板。なので、ここで右折。しかし、この看板はなかなか見つけられないのでは?
少し進むと「熊野古道」の提灯。ありがたいです。
もう少し進むと右手に「熊野古道」の提灯と、案内板。左に曲がって300m先が「川辺王子跡」の文字。なので、ここで左折。
26.川辺王子
川辺王子の場所は諸説があります。大阪府都市整備部交通道路室で作成されたマップでは、この地が川辺王子とされていますが、次の中村王子跡の近くの「力待(りきし)神社」という説もあり、そちらにも「川辺王子跡」の碑があります。川の氾濫等により、時代により熊野参詣道が異なったためと思われます。
川辺王子からは田んぼの中を進みますが、道が入り組んでおり、どの道が正しいのか非常に不安になりますが、地面に「熊野古道」の印があり、それを頼りに進みます。
田んぼを抜けると「熊野古道」の提灯がつるされた「神波(こうなみ)自治会館」を右に曲がります。
27.中村王子
田んぼの脇に「中村王子」の看板。今は「楠本」と呼ばれているが、「楠本」の古い地名が「中村」であったため「中村王子」と呼ばれているとのこと。
以下は今後更新予定。
熊野街道 信達一之瀬王子~馬目王子
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
20.信達一之瀬(しんだちいちのせ)王子
64号線を進みます。竹林の中を抜けます。
「岡中」の交差点で左に進みます。
阪和線をくぐります。
阪和線をくぐった後、少し左に入ったところに「岡中鎮守社」があります。
長岡王子は、波太神社遥拝の鳥居の場所が有力であるが、この岡中鎮守社であったとする説もあります。
岡中鎮守社には、樹齢800年の大樟(くすのき)があります。
大樟の横には、槇(まき)の古木があります。槇は成長が遅く、大樟に比べると見劣りしますが、樹齢600年超と思われ大楠とともに、大阪府の天然記念物に指定されています。
金熊寺川を渡ります。
63号線を越え直進します。その後、30号線に合流。
30号線を少し進むと道が二又に。左側を道なりに進みます。
右手に和泉鳥取駅のホームが見えます。この先に波太神社遥拝の鳥居があります。
21.長岡王子
波太神社遥拝の鳥居。
長岡王子の場所の説はいくつかありますが、最有力の場所がここ。
64号線を進み、阪和自動車道が見えたところで左にそれます。
22.地蔵堂王子
緑ヶ丘第5児童遊園のフェンス前に説明板と石碑があります。
熊野街道は時代とともにルートが変わったようで、今回紹介しているルートでは、上の看板に書かれている「琵琶ヶ岸懸(びわががけ)」は通りませんが、もっと古い時代には通っていたようです。ちなみに、この公園前を進むと「琵琶ヶ岸懸」へ行くことができるので覗きに行きました。
右側は阪和自動車道。
「きけん」と書かれた看板の向こうが「琵琶ヶ岸懸(びわががけ)」。
草藪のように見えますが、崖沿いの細い道で左側は山中川へ真っ逆さまの崖。
少し進むと大きな糞。どうも猪の糞のよう。流石にこの崖際で猪が出てくると逃げ場所が無いので、そこでUターン。次の馬目王子に向かうため、64号線に戻ります。
阪和自動車道をくぐり64号線を進みます。
23.馬目王子
左側に三角形の空き地が現れます。ここが馬目王子跡。
現在、馬目王子は波太神社に合祀されており、ご神体の丸石は山中神社に祀られているとのこと。
熊野街道 目次
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
(2021/1/14時点で、~中村王子まで)
・八軒家~阿倍王子
・阿倍王子~大鳥居新王子
・大鳥居新王子~池田王子
・池田王子~佐野王子
・佐野王子~信達一之瀬王子
・信達一之瀬王子~馬目王子
・馬目王子~中村王子
以下は今後更新予定。
熊野街道 佐野王子~信達一之瀬王子
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
17.佐野王子
佐野王子跡から元の道に戻り直進。26号線にぶつかる一つ前の信号を左折し、26号線の市役所前交差点へ。
市役所前交差点から少しだけ26号線に沿って進み、一つ目の左に入る道(64号線)へ斜めに入ります(上記の左斜めに進む道)。ここから、しばらくは64号線を進みます。
少し進むと、関西空港自動車道をくぐります(葵町交差点→長滝北交差点)。まだまだ64号線。
この辺りからしばらく、上記のような古い町並みが続きます。
長滝西交差点を右折。大苗代方面へ。まだまだ64号線を進みます。
両側にため池があり、その間を進みます。
左手に、塙団右衛門(ばんだんえもん)の五輪塔。塙団右衛門は、大坂夏の陣で豊臣方につき、徳川方の浅野の軍勢と戦いここで討ち死にしたと伝えられています。
ここを過ぎると、右手に「いづみモータース」のお店が見えます。
籾井王子跡の石碑は、奥の銀色の車の向こう側の壁の右側と奥のお宅との隙間にあります。
場所がわからず、いづみモータースの方にお聞きしたところ、快く教えて頂けました。(ありがとうございます。)見に行くときは、ひと声かけた方が良いと思います。
この土塀の右側の隙間を進むと、
18.籾井(もみい)王子
奥に、籾井王子跡の碑がありました。
籾井王子の碑を後にし、元の道を進むと、明治大橋が見えます。橋の左手前に、樫井古戦場跡の碑があります。先に紹介した塙団右衛門が戦った戦場の一つ。
橋を越え、道なりに進むと「信達大苗代郵便局」が左手に。その郵便局を過ぎてすぐ右に曲がって数百メートル進むと正面に厩戸王子跡の石碑があります。
19.厩戸(うまやど)王子
64号線をひたすら進みます。
この辺りは信達宿(しんだちしゅく)と呼ばれるところで、熊野詣でにぎわった場所とされています。古い町並みが残っています。
この地図は、熊野街道を進むにあたって大いに役立ちます。
信達宿本陣跡 角谷家があります。
信達宿は、紀州街道(熊野街道)と信長街道が交差しているところで、かつ信長街道の起点。そのため、常夜灯が設置されたようです。
このような案内板は、都合3つありました。
もう少しで信達一之瀬王子です。
20.信達一之瀬(しんだちいちのせ)王子
熊野街道 池田王子~佐野王子
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
12.池田王子
池田王子の近くには、道標もありますが、上記の看板が久米田保育園横に設置されています。
この路地の奥のお宅の庭に池田王子跡の石碑があると思われます。
(岸和田日和のブログ
https://kishibura.jp/blog/hiyori/2019/05/kishiwada-manpo.html#gsc.tab=0
には、石碑の写真が掲載されていますが、事前に連絡し了解を取ったうえで写真を撮ったものと思います。)
熊野街道は再び30号線に戻ります。
積川神社遥拝鳥居。実際の神社はここから5kmほど離れたところにあるのですが、熊野詣の安全を神社に行くことなく、ここから祈願したとされています。
作才町交差点。ここで一旦30号線から別れ、左の道を進みます。
左手にサカイ引越センターが見えたところで右折し、土生交差点で再び30号線に合流。
GOOGLE MAPによると、このまま進むと、「道ノ池地蔵熊野街道」という場所に出るので、そちらを過ぎてから30号線に戻るルートが正しいのかもしれませんが、「大阪府都市整備部交通道路室」による熊野街道はここで右折となっています。
この土生交差点を左折し、再び30号線を南下。
13.浅字川王子
麻生川王子とも呼ばれています。
浅字川王子の場所は定かではありませんが、現在の三和製作所の場所にあったとする説が有力です。
堂ノ池交差点。ここで左折します。
右手に池(堂ノ池?)があり、その池に沿った道があります。その道を右手前に戻る感じで池沿いに進みます。
しばらく進むと「小栗街道」の道標と「熊野街道 半田一里塚」の説明板。
この茂みが一里塚。熊野街道で現存するのはここだけ。
直進していくと自動車教習所にぶつかるので、そこで右折。ここから少しややこしい。
大阪府の資料ではここで右折し、その後左折するとあるが、この横断歩道を渡って直進しても同じところに出るので、素直に突き当たりまで直進。
ここで左折。
道は右に大きく曲がっているが、その道なりにまっすぐ進む。
途中お地蔵さんを挟んで二股に分かれているところも道なり(右側)に進みます。
左手の駐車場を回り込んで、左折。
信号のない三叉路で右折。
すると正面に水間鉄道の踏切が。
奥が行き止まりになっており、右を見ると岸和田牛滝山貝塚線が見えるこの四つ角で右折。
岸和田牛滝山貝塚線をくぐる。
30号線にぶつかるがここを横断。前に見えているのが貝塚中央病院。その手前の草むらとの間に右に曲がる道がある(長谷川ノ坂)のでそこを進む。
左側が貝塚中央病院。この坂(長谷川ノ坂)を直進。
長谷川ノ坂の両側には、古い土塀等が残っています。
一つ目の信号で右折。阪和線の踏切を越えると、橋本の交差点で30号線とぶつかるので左折し30号線を南下。
イオン貝塚店が左奥に見える地蔵堂交差点を右折し少し細い道に入る。
すぐに左折し、右折できる二本目の道を右折。
14.鞍持王子
少し進むと右側にこの道標。
鞍持王子の場所も、諸説があるが、この正福寺辺りにあったとされる説が有力。
正福寺。この東に鞍持王子があったとされています。
熊野街道に戻り、少し進むと左側に南近木神社があります。
鞍持王子と次に出てくる近木王子は、現在、この南近木神社に合祀されています。
15.͡近木王子
近木王子の場所は、前述の「正福寺の隣」という説や、「吉祥園寺の南」「吉祥園寺と善正寺の間」など、諸説があるが、吉祥園寺の南の小道を挟んだ王子村字権現に王子権現社(熊野神社)があったとされており、その場所が有力。
吉祥園寺。
善正寺。
この前を通り少し進むと見出川を渡ります。渡ったところが五叉路になっていますが、右の川沿いの次の道を右に曲がります。
二つ目の四つ角で左折すると、左側に貝田町会館があります。
16.鶴原王子
今は貝田町会館となっているところが、鶴原王子跡と言われています。
四角池を右に見ながら進みます。
六叉路に出ます。上の写真の真ん中の細い道を進みます。
大藪池の交差点に出ます。歩道橋を左に見ながら道路を渡ります。
大藪池交差点を渡り、一つ目の交差点で左折します。
しばらく進むと佐野川を渡ります。
大きな赤白の鉄塔があります。ここで、鉄塔の左側の道を進みます。
右折できる一つ目の道を右折すると、すぐに佐野王子跡があります。
17.佐野王子
熊野街道 大鳥居新王子~池田王子
平安時代から白川上皇や鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。
熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。
この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。
8.大鳥居新王寺
熊野街道は、鳳本通商店街を抜けた後もそのまま進むのですが、「大鳥居新王子」は、商店街抜けた後、すぐに左折し、鳳南町交差点を過ぎてしばらく行くと左手にNTTのビルが見えます。今は、ケアサービスのビルになっているようです。
王子の場所は定かではないのですが、大鳥居新王子は大鳥美波比神社にあったとされ、その大鳥美波比神社の石碑がNTTビルのあたりの民家にあることから、この辺りに王子があったと推定されています。
上交差点まで、鳳本通商店街から直進。この交差点で、右に折れます。
富木交差点の次の信号で30号線が二つに分かれていますが、そこは左の道を進みます。
クリーンセンター前の交差点の次の信号を過ぎると、またまた道は二股に。ここは右の細い道を進みます。
堺泉北有料道路を越えるところに、こちらと向こうに、わかりにくい木の道しるべがあります。
9.篠田王子
左に聖神社一の鳥居が現れます。そこを左に見て進むと、一つ目の左の路地に。
見落としそうな小さな看板が足元に。
路地を入ると篠田王子の石碑。ただし、個人宅に石碑が迫っており、その自衛策を思いますが、個人宅に近づくとパテライトが回りますので、素早く見て立ち去るのが賢明。
道は二股に分かれており、真ん中に木の道しるべ。
ここは左を進みます。
10.平松王子
少し進むと、左手に「放光池1号公園」が見えます。
この公園の右前に。
平松王子跡の石碑。
道なりに進みます。
自衛隊の駐屯地のところで道が二股に分かれていますが、そこは右側(自衛隊駐屯地と反対側)を進みます。
自衛隊駐屯地を通り過ぎたあたりにある道標。「小栗街道」と書かれています。
熊野街道の一部は、「小栗街道」とも呼ばれていました。
古い町並みも少し残っています。(が、言うほど古いお家は見かけませんでした。)
11.井ノ口王子
槇尾川を渡る手前にあります。
井ノ口王子前の歩道にある道しるべ。
槇尾川を渡り、和気の交差点で右に分かれ、元の30号線と平行に走る道を進み、松尾川を渡ったところ(彩の広場)にこの説明板があります。
12.池田王子
池田王子の近くには、道標もありますが、上記の看板が久米田保育園横に設置されています。
この路地の奥のお宅の庭に池田王子跡の石碑があると思われます。
(岸和田日和のブログ
https://kishibura.jp/blog/hiyori/2019/05/kishiwada-manpo.html#gsc.tab=0
には、石碑の写真が掲載されていますが、事前に連絡し了解を取ったうえで写真を撮ったものと思います。)