熊野街道 阿倍王子~大鳥居王子

  平安時代から白川上皇鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。

 熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。

 この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。

 

5.阿倍王子

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大阪市内に残る唯一の熊野九十九王子。江戸時代には「若一王子」とも呼ばれていました。

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境内には立派な樟(くすのき)が。

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道なりに、道しるべを見ながら

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南へ南へ。

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しばらく進むと、阪堺電軌上町線と再会。

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姫松交差点の次の角を左に。

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歯医者さんの前に道しるべが。

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左に万代池が。この道しるべの先で右に曲がり、阪堺電軌の走るあべの筋に戻ります。

帝塚山四丁目の駅を右に見ながら、線路からは離れていき、少し行くと南海高野線の踏切があります。これを渡ると左前に7-11のお店が、住吉東駅の駅前にあります。このお店の前を道なりに、少し右に曲がりながら進みます。

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小さな用水路?を渡ると、久しぶりに道しるべ。この辺りから西に進むと住吉大社があります。

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住吉大社に寄り道。

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住吉大社で有名な反橋(そりばし:通称太鼓橋)は、淀君が奉納したと言われる橋。

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また熊野街道に戻ります。この辺りの道には、ところどころにこのような板が道に埋め込まれています。

6.津守王子

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長居公園通りを渡った左側にある墨江小学校辺りにあったとされています。

しかし、その後、津守王子は止止呂支比賣命(とどろきひめみこと)神社に合祀されています。

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熊野街道から少し東に離れたあべの筋沿いにあります。

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熊野街道に再び戻り、大和川に向かっていきます。

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この先が大和川

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大和川沿いを少し進み、前に見える遠里小野(おりおの)橋を渡ると、

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堺市に入ります。

一つ目の左折できる道を左に入り、南海高野線浅香山駅を越えたところの踏切を渡ります。

踏切を渡ってすぐ右折します。2本の道がありますが、線路沿いではなく、2本目の道を右折します。

3つ目の信号、左奥に高い塀に囲まれた大阪刑務所が見える交差点で右折。

一つ目の四つ角に境王子が。

7.境王子

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境王子の四つ角を左折し直進すると、方違(ほうちがい)神社にぶつかります。

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熊野街道は、方違神社の東側を回り込み、反正天皇陵沿いに南下します。

平安時代に熊野詣を行っていたころは、この方違神社からまっすぐ南下する道を熊野街道としていたようですが、堺市が発展するにつれて道が変わり、最終的には仁徳天皇陵の南で大きく西に回り込むルートになったようです。

反正天皇陵の東側には小さな「大王古墳」と「鈴山古墳」があります。

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大王古墳。

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鈴山古墳。

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反正天皇陵。

熊野街道は、反正天皇陵を東から回り込み、一本目の南下する道がそれです。しかし、すぐに三国ヶ丘高校にぶつかるので、一旦左折し、三国ヶ丘高校に沿って南下します。

榎本公園の四つ角で右折し、一つ目の信号を今度は左折。

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左は竹之内街道、右は西高野街道の分かれ道に出ます。西高野街道熊野街道

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進んでいくと、歩道橋。この向こうが仁徳天皇陵。この歩道橋を渡ります。

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仁徳天皇陵の正面。

熊野街道は、仁徳天皇陵の南側で、西に進みます。

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阪堺電軌阪堺線御陵前駅にぶつかる手前の交差点(右に橋、左上にスーパー玉出の看板)で左折。

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石津神社を左に見ながら直進(左側の道)。

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石津神社。

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神石市之町交差点の少し手前。

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神石市之町交差点。右の道(馬場記念病院方向)を進みます。

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馬場記念病院横。

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鳳小栗交差点を越したところ。

右の道をどんどん進みます。

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大鳥大社。熊野詣の人々は、ここにも参拝したようです。

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大鳥神社には、「根上りの大楠」。「値が上がる」から、商売繁盛・財運向上のパワースポット。

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JR阪和線を越え、そのまま鳳本通商店街の中を通り抜けます。

8.大鳥居新王寺

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熊野街道は、鳳本通商店街を抜けた後もそのまま進むのですが、「大鳥居新王子」は、商店街抜けた後、すぐに左折し、鳳南町交差点を過ぎてしばらく行くと左手にNTTのビルが見えます。今は、ケアサービスのビルになっているようです。

王子の場所は定かではないのですが、大鳥居新王子は大鳥美波比神社にあったとされ、その大鳥美波比神社の石碑がNTTビルのあたりの民家にあることから、この辺りに王子があったと推定されています。

 

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熊野街道 八軒家~阿倍王子

  平安時代から白川上皇鳥羽上皇が京都から淀川を下り、今の天満橋辺りの「八軒家(当時は「渡辺津(わたなべのつ)」と呼ばれていた)」から熊野詣を行った。「八軒家」から熊野三山への道を熊野街道と呼びます。

 熊野街道には、「王子」と呼ばれる社が九十九あります。「王子」とは、熊野権現(ごんげ)の化身として巡礼者を守護する御子神を祀った社であり、旅の休憩場所としても利用されました。

 この「王子」を、寄り道しながら追いかけてみることにしました。

0.八軒家

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旅の始まりは八軒家。

八軒家には、道の駅ならぬ「川の駅」があります。ここは、大阪ダックツアーの発着場でもあります。

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八軒家には「常夜燈」のモニュメントが。

江戸時代の終わろうとしている1860年に灯篭が建てられましたが、明治時代に生國魂(いくくにたま)神社に移されました。

平成二十四年に元の図面を基に復元されています。

灯篭の下部には、灯篭の説明や、熊野街道の説明が記載されています。

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他にも、このような石碑や説明板がいくつかあります。

1.窪津王子(坐摩神社行宮)

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九十九王子の第1社。名称は「窪津王子」以外にも「渡辺王子」「大江王子」とも呼ばれていたそうです。場所も、確定はされていないものの、「坐摩神社」にあったと伝えられています。

豊臣秀吉大坂城を築城する際、城域にあたるた坐摩神社は、久太郎町四丁目に遷座されていますが、元の坐摩神社の場所がここ。

坐摩神社の旧鎮座地は、熊野街道から1本西の通りに面しています。なので、一度、1本東に戻り、南に進みます。

2.坂口王子(南大江公園)

しばらく南に進み、阪神高速東大阪線をくぐると、右手に「南大江公園」が現れます。

坂口王子跡は、公園の右奥にあります。

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坂口王子は、ここに創建された朝日神明社に置かれていたとされています。

ちなみに朝日神明社は、今は此花区春日出中に移座されています。

南に進むと、長堀通に出ますが、熊野街道はその1本手前を左に折れ、東に進みます。

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谷町筋を越え、一つ目の4つ角を右に折れると、「熊野街道」の道しるべ。

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長堀通を越えたファミリーマート横にも道しるべ。これを左に見て、どんどん南に。

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三叉路にぶつかります。右は空堀商店街。ここを左に曲がるとすぐに、

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右に曲がる細い下り坂が。ここが熊野街道

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道しるべを見ながらどんどん南下。

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この道には、昔ながらのお家や、古民家をリメイクしたお店があったりします。

「からほり推奨建物」の札が付けられているお家もあります。

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おしゃれな眼鏡屋さん。

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「秋村泰平堂」という会社の前に道しるべ。この会社は、ちょうちんを作って100年という会社。

3.郡戸(こうづ)王子(高津宮)

「高津」はもともと「郡戸」と記されていたものが変化したとの説。

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熊野街道からは、少し西に離れたところにあります。

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あくまで「推定」。

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高津宮には、五代目桂文枝の碑もあります。

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千日前通りを渡る交差点にも道しるべ。

4.上野王子

上野王子は、熊野街道からかなり東にはずれたところにあります。

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上之宮台ハイツの入り口に

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上之宮神社の石碑があります。上野王子はここにあったとされています。

上野王子から、ふたたび熊野街道に戻り南に下ると勝山通りに出ます。右に天王寺警察署があるのでそこで右折し谷町筋に。

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谷町筋に道しるべ。ここからは、谷町筋を南に。

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少し四天王寺に寄り道。

王子ではありませんが、熊野詣の人々はここにも参詣されていました。この石灯篭の後ろには、「熊野権現礼拝石」があります。

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この石の柵で囲まれた中にある石は、「熊野権現礼拝石」と呼ばれており、熊野詣をする人は、この石(この石の向こうに熊野がある)に向かって道中の安全を祈ったとされています。

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谷町筋に戻り再び南下。

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天王寺駅前商店街を抜け、JR天王寺駅の横を抜け、あべの筋へ。

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阪堺電軌上町線を横に見ながら進みます。

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「熊野かいどう」のごつごつした道しるべは昭和に作られたもの。

シュッとした「熊野街道」の道しるべは平成に作られたもの。

 

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「松虫」の交差点。あべの筋は「玉出」の看板の左側ですが、熊野街道は「玉出」の看板の右側の細い道。そこに入っていきます。

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この辺りからところどころに、この手の石板が設置されています。

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阿倍野保名郵便局で、八軒家から7Km。

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ペットボトルの不思議なお家を横目に。

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陰陽師で有名な安倍晴明を祀る「安倍晴明神社」。

5.阿倍王子

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大阪市内に残る唯一の熊野九十九王子。江戸時代には「若一王子」とも呼ばれていました。

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境内には立派な樟(くすのき)が。

 

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車 右折時に止まらないといけないケース

 高速道路下の側道を走っていて、右折して高速道路の下をくぐった時、前の信号は当然「赤」。

 通常の交差点であれば文句なしにそのまま進みますが、反対車線との間に公園や遊歩道が存在するとき、そのまま行ってもいいのか迷うときはありませんか?

 良くわからなかったので調べてみました。

1.状況

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 上記のようなケースです。

2.ポイントは停止線

 停止線

実線なら、青になるまで停止

点線なら、赤でもそのまま進んで良い

これだけとのこと。

 参考にしてください!

自転車 横断歩道信号を間違って渡るとキップを切られる

 最近、知り合い二人が、自転車で横断歩道を渡っているときに、キップを切られたという話を聞きました。

 とんでもない!

 そこでどんな時に違反になるのか?を調べてみました。

1.原則

 自転車は、軽車両(道路交通法第2条)。つまり、車と同じ扱いなので、

車道を走る道路交通法第17条)

 (車道に自転車道が設けられている場合は、そこを走る(道路交通法第63条の3)

・車両なので車の信号を守る

が原則。

2.例外

 自転車は、歩道を走ることも許されています(道路交通法第63条の4、道路交通法施工例第26条、交通の方法に関する教則)。 

・歩道に「普通自転車歩道通行可」の標識等があるとき

・13歳未満もしくは70歳以上の高齢者、身体の不自由な人

・車道の左側部分を通行することが困難な場合や、交通量が多い場合など

 以上の場合は、歩道の通行も認められています。歩道を走行する場合は、歩行者の信号に従うことになります。

 かなりアバウトなルールですが、余程のことが無い限り、歩道を自転車で走ったからといってキップを切られることは無いと思います。

 但し、歩道ではベルを鳴らして歩行者の通行を妨害するような行為は罰則が決められていますので(道路交通法第63条の4第2項)、歩道では歩行者優先で走る必要があります。

3.超例外

 問題は、『横断歩道に「自転車横断帯」がある』=『歩行者信号の横に「自転車 歩行者 専用」の表示がある』場合。

 この場合が厄介であり、キップを切られる可能性の高いケースです。

結論は

「自転車 歩行者 専用」信号がある場合は、自転車は車の信号信号を守ってはいけない

 車道を走っていようと、この信号を見たら、この信号に従わなければいけません。この信号があるところで、車の信号に従って交差点を通行した場合違反となります!!!

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 通常は、下記のように自転車横断帯とペアになっているようです(自転車横断帯の無い場合もありましたが)。

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 自転車横断帯がある場合は、「自転車は自転車横断帯を渡らねばならない」というルールもあります。

4.超々例外

 最悪と思われるケースは、下のような交差点。

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 「自転車 歩行者 専用」信号に加えて「歩車分離」。

 上記の写真の場合、車道を走っていた自転車は、車の信号は「」なのに「自転車 歩行者 専用」信号が「」なので、この信号が赤になるまでこの信号を渡ることができません。加えて、「歩車分離」なので車の信号が「」にならないと「自転車 歩行者 専用」信号は「」にはなりません。最悪だと思いませんか?

 自転車を車両と定義するのであれば、「自転車 歩行者 専用」信号は自転車のスムーズな走行を阻害するものとしか思えません。

 各都道府県の警察でも、少し考えていただきたいものです。

 以上、ご注意を!

2-7.天守閣

 2-7.天守

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  現在の天守閣は昭和6年(1931)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。二代目の天守徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。以来大坂城天守の無い城郭として幕末に至る。三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次世界大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。

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 鯱【しゃちほこ】。

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数寄屋前櫓跡の天守閣寄りの場所は、雨が降ると大きな水たまりができます。雨が上がった後には、逆さ天守閣が綺麗に見えることも。

2-7-1.金明水井戸屋形【きんめいすいいどやかた】

大坂城の小天守台【しょうてんしゅだい】にある井戸を金名水といい、それを覆う面積11.55平方メートル、高さ5.2メートルの建物を金名水井戸屋形という。井戸は水面まで約33メートル、井筒は一個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事に寛永元年(1624)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626)に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)に焼失した際にも類焼をまぬがれたことが判明した。なお江戸時代までこの井戸は黄金水【おうごんすい】と呼ばれ、本来の金名水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。

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2-7-2.号砲

この大砲は、全長348㎝、砲口の内径20㎝、外径40㎝先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。

1863年、幕府の命令により、美作津山藩【みまさかつやまはん】(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。

明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午【ひる】のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

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2-7-3.小天守

天守閣前の金名水井戸屋形や号砲が置かれている一帯。天守は作られなかったとのこと。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

2-6.大阪城 本丸への出入口と本丸

 2-6.本丸への出入口と本丸

2-6-1.極楽橋

 山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。豊臣秀吉天正11年(1583)に築造を開始した大坂城でもこの付近に架けられた橋を極楽橋と呼び、大坂夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも架け直された。江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965)に再架橋された。現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚【きょうやく】・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造りとしつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさす事から、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。

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2-6-2.山里門跡

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2-6-3.秀頼・淀殿ら自刃の地

 慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀頼とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
 それにちなんで平成9年(1997)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。

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2-6-4.刻印石広場

 ・大阪城内ゾーン
 ・竜造寺町12ゾーン
 ・竜造寺町13ゾーン
 ・寝屋川ゾーン
 ・木津川口ゾーン
 ・玉造町ゾーン
 ・その他ゾーン
 この広場は、大坂築城400年を記念してその石垣を形成している刻印石を展示、照会するため、新設したものである。
 刻印石とは、大阪城の石垣築城に参加を命ぜられた諸大名の家臣や石工らが、石集めや石積みの過程で、個々の石に、必要に応じて様々な文字や文様を刻み込み、さらに、出来上がった石垣の表面に担当大名の家紋その他を刻み込んだもので、これまでに数万個も発見されている。ここに展示したのは、昔の石置場、周辺の川筋などから出土したものや場内の石垣修理で撤去されたものなどである。
 一般に、大阪城の石垣は、豊臣時代のものがそのまま残されていると思われがちであるが、実は、現存する石垣はすべて元和・寛永年間(1620~1629)に、徳川幕府が西日本の64藩を動員して築かせたもので、無数の刻印石がその事実を証明している。
 昭和58年10月

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2-6-5.真心碑

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太平洋戦争の終わりごろ、女子防空通信隊の宿舎があった場所で、1945年(昭和20年)6月1日の空襲で焼失しました。

昭和41年11月に「旧中部第三十五航空情報隊女子防空通信手有志」により、この碑が建てられました。

2-6-6.大阪国防館跡

この付近に、第二次世界大戦のさなかに陸軍が設置した「大阪国防館」があった。戦地の兵士をしのび国防意識を高めることを目的として昭和15年(1940)3月に開館し、木造2階建ての内部には、戦地や防空施設のジオラマ、兵器や戦闘機・戦車などの体験型展示、戦没者の遺影や遺品などが9室にわけて陳列されていた。戦局悪化にともない同17年ごろに閉鎖され、同18年からは中部軍司令部女子防空通信隊の宿舎として使われた。昭和20年の空襲によって全焼し、姿を消した。

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2-6-7.山里丸石垣の機銃掃射痕

 石垣の表面に残る傷は、第二次大戦末期の空襲による被害の痕跡で、機銃掃射によってついたものと推定される。昭和20年(1945)3月から終戦前日の8月14日まで、大阪は8度に及ぶ大空襲を受け、陸軍の中枢機関や軍事工場があった大阪城も標的となった。山里丸ではこのほかにも爆弾によって南側石垣上部が吹き飛ばされ、北川内堀に面した石垣も数か所ひずんだが、現在はいずれも修復されている。

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2-6-8.淀君並殉死者三十二名忠霊塔

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2-6-9.片菱櫓跡

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山里丸の西の隅。

櫓の形が、四角とひし形が合わさった形であることから、この名前が付けられたと思われます。

2-6-10.山里丸【やまざとまる】

 内堀に囲まれた大坂城の本丸のうち、天守北側の一段低い区域を特に山里丸(山里曲輪【くるわ】)と呼ぶ。豊臣時代には、山里の風情をかもしだす松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。天正11年(1583)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天守完成よりも早くここで茶室完成の御披露目を行っている。秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀【まつ】る豊国社【とよくにしゃ】も建てられた。慶長20年(=元和元年、1615)の大坂夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交代で城を守衛する大名、山里加番【やまざとかばん】の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。

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2-6-11.山里口門跡

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山里丸から坂を登り、山里口出桝形に出るところ。

2-6-12.山里口出桝形【やまざとぐちでますがた】

 本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。外敵に備えるための、石組みに囲まれた四角い区画を枡形といいい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出桝形という。南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里口門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。なお西は埋門【うずみもん】となっていて隠し曲輪へと通じている。

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山里丸から天守閣に向かって坂を登った場所。奥に見えるのが隠し曲輪の入り口の埋門跡。左の天守閣に向かう部分が姫門跡。

2-6-13.埋門跡【うずみもんあと】

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隠し曲輪の入り口。

2-6-14.隠し曲輪【かくしくるわ】

 大阪城の本丸に唯一築かれた帯曲輪【おびくるわ】で、江戸幕府による大坂城再築時のものである。出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。一時期幕府の焔硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されていたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊予大須藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印を間近に見ることができる。

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丸に十の加藤家、丸に二八の小出家の刻印が見られる。

2-6-15.姫門跡

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2-6-16.北の手櫓跡

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姫門跡から天守閣に向かって入り、天守閣手前を左に曲がった先にある。

2-6-17.天守台石垣の爆撃被害跡

昭和20年(1945)、陸軍の関連施設が集中していた大阪城は、終戦前日の8月14日を最大とする爆撃を数次にわたって受けた。これにより大阪城天守閣付近の石垣も大きな被害をこうむっている。天守台北壁から東壁にかけてみられる石垣の「ずれ」はこの時のもので、天守閣の北数メートルの地点に落ちた爆弾によるものである。昭和6年復興の天守閣は天守台に荷重をかけない構造だったため影響はなかったが、昭和39年にはひずみの進行を止めるための工事が行われた。

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赤丸で囲んだところと思われます。

2-6-18.天守下仕切門跡【てんしゅしたしきりもんあと】

 天守台の西側は石組によって南北が隔てられており、通路となった個所の門を仕切門と呼んだ。北から本丸中心部へ侵入しようとする敵の直進を妨げるため両脇の石垣を行き違いとし、そのため門は東に向いていた。徳川幕府による大坂城再築時に築かれ、明治維新の大火により石垣上にあった塀ともども焼失したと考えられる。

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2-6-19.埋門向櫓跡【うずみもんむかいやぐらあと】

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天守閣に向かって姫門跡から入ってすぐ右側の場所。

2-6-20.御成門

下記の櫓跡は分かるのですが、御成門跡の場所は不明。「御成門之内櫓」に隣接していたと思われます。

2-6-21.御成門之内櫓跡

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2-6-22.桜門

 本丸の正門にあたる。徳川幕府による大坂城再築工事が行われていた寛永3年(1626)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887)に将軍が再建し現在に至る。左右の塀も桜門再建に合わせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969)に復元されている。桜門の名称は豊臣秀吉が築いた大坂城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられる。但し豊臣時代の大坂城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入り口は現在よりも西に在り、入る方向も違っていた。なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には、雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れるといわれた。

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2-6-23.銀名水井戸の井筒【ぎんめいすいいどのいづつ】

 この井筒は元来、本丸に建つ旧陸軍第四師団司令部庁舎(旧大阪市立博物館)の裏手にある銀名水(銀水)井戸のものである。銀名水井戸は徳川幕府再築の大坂城本丸に設けられた5つの井戸のうちの一つで、本丸御殿台所の裏に位置し、本丸を警備する役人たちの飲料水として用いられた。大坂城内で最も格式の高い井戸の一つで、「金」「銀」などを井戸の名称に冠して重要性を表現した例は各地に見られる。昭和6年(1931)、大阪城天守閣の復興と同時に行われた第四師団司令部庁舎の新築にあたり、井筒と周囲の敷石が現在地に移され、飲料用の水道水が引かれた。なお現在の金名水は小天守台上にあるが、これは元来「黄金水」と呼ばれたもので、金名水井戸はこれとは別に本丸内にあった。今は配水池に埋もれていて目にすることができない。

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2-6-24.桜門枡形の巨石(蛸石【たこいし】)

 桜門の内側には、本丸の正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた「枡形」と呼ばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓が建てられた。個の枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄の担当によって築かれ、石材は備前岡山県)産の花崗岩が用いられている。正面の石は蛸石【たこいし】と呼ばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)と呼ばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。

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蛸石。影で見にくくなっていますが、石の左端に蛸のような模様が見えます。

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 袖石。

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袖石の上部から蛸石を上から見たところです。蛸石は面積は大きいのですが、厚さはそれほどでもないことが見て取れます。

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蛸石の右側には、明治維新の大火(?)によって焼け焦げた石があります。

その右側の石は、昭和になって(?)重機を用いて切り出し積み上げられた石なのですが、

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昔の石には無かった重機の傷跡が残っています。

昔の人力の偉大さを改めて実感。

2-6-25.南の手櫓跡

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桜門を通り、右手に曲がり進んだ右手。

2-6-26.東南隅櫓跡

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MIRAIZAの裏手の右端。

2-6-27.馬印櫓跡【うまじるしやぐらあと】

 徳川幕府が再築した大坂城の本丸には、石垣上に3層の櫓が11棟建っており、その内ここにあった櫓は「馬印櫓」と呼ばれていた。戦陣において大将の所在を示す標識を馬印といい、この中に徳川家康大坂の陣で用いたとされる馬印が納められていた。大坂城守衛の首班である大坂城代は在職中この馬印を拝見することを例とし、幕末に大坂城を訪れた十四代将軍徳川家茂もこの櫓に入って馬印を拝覧している。馬印櫓は明治維新の大火により、他の本丸の櫓とともに焼失した。

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MIRAIZAの裏手、左端。

2-6-28.月見櫓跡

ここには月見櫓と呼ばれる三層の隅櫓が建っていた。徳川幕府が再築した大坂城には本丸に11棟の三層櫓が築かれ、それぞれ備蓄用の武器武具や兵糧などが納められていたが、この月見櫓には鉄砲が保管され、大坂鉄砲奉行が維持管理にあたった。明治維新の大火により本丸の他の櫓とともに焼失する。なお「月見櫓」の名称は他の城郭にもみられ、もともとは兵士の到着を大将が確認する「着見」に由来するとされるが、江戸時代には月見をはじめとする眺望を意識した櫓の名として使われることが多かった。

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2-6-29.糒櫓跡【ほしいいやぐらあと】

「糒櫓」は徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建つ三層櫓11棟の内の1棟である。大坂蔵(くら)奉行(ぶぎょう)が管理し、名称は、蒸した米粒を乾燥させた糒(干飯)がここに備蓄されていたことにちなむ。窓は26あって本丸の三層櫓の中で最も多く、これは東北方面への眺望や監視に適していたことによるものだろう。明治維新の大火により糒櫓は他の本丸の櫓とともに焼失した。なお、この櫓近くに生えていた松が江戸時代「豊臣秀頼生害(しょうがい)の松」と呼ばれていたが、これは豊臣秀頼大坂夏の陣の際、城内の糒櫓で自害したとの考えが一般に広まったことを背景に生まれた伝説だろう。

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2-6-30.数寄屋前櫓跡【すきやまえやぐらあと】

徳川幕府が再築した大坂城の本丸に建てられた11棟の三層櫓の内「数寄屋前櫓」と呼ばれる櫓がこの地にあった。本丸西側の北から3番目の櫓で、本丸の石垣が西の丸方面へ最も突き出た個所に位置し、平面が片菱形という特殊な構造をしていた。大坂具足奉行が管理し、鎧を中心とする武具類が保管されていたと推定される。「数寄屋前櫓」という名称は、櫓の近くに数寄屋(茶室)が建てられていたことに由来する。明治維新の大火により、本丸の他の櫓とともに焼失した。

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日本庭園の北、西ノ丸庭園が見下ろせる場所。

2-6-31.教育勅語記念碑

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教育勅語40周年を記念して、大阪市教育会が昭和6年に建てた。

2-6-32.日本庭園

 昭和6年(1931)の大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園である。中央の池は面積約300坪の鶴翼形、背景に竹山をめぐらしている。池の南側からは、天守を借景とした庭園のたたずまいが楽しめるように工夫がなされている。

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2-6-33.南西隅櫓跡

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天守閣を正面から見て左下(南西隅)に二つの櫓が。上(北)の櫓跡がこれ。

2-6-34.西の一番櫓跡

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天守閣を正面から見て左下(南西隅)に二つの櫓が。下(南)の櫓跡がこれ。

2-6-35.中部軍司令部防空作戦室跡

第二次世界大戦の末期、陸軍の中部軍司令部防空作戦室の施設が大阪城本丸の南に建造された。時期は昭和18年(1943)と考えられ、ここを拠点に防空作戦の立案、敵機飛来の感知や目標地の予測、迎撃命令の発令、管区内への空襲警報発令などが行われた。構造は地上3階、地下1階のコンクリート製、地下1階から地上2階までの内部は吹き抜けで、壁は爆撃に耐えられるよう1メートル以上あった。空爆による破壊をまぬがれて戦後に至ったが、公園整備の一環として昭和45年に解体撤去された。堅牢だったため工事は難航をきわめたという。

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2-6-36.旧第四師団司令部庁舎

現在の大阪城天守閣と同じ昭和6年(1931)、陸軍第四師団司令部の庁舎として建設された。鉄筋コンクリート造で、ヨーロッパの城を参考とし、左右対称の重厚な外観をあらわす。昭和20年の 第二次世界大戦終結時は中部軍司令部の庁舎だった。連合国軍による接収のあと、昭和23年から警察(大阪市警察局大阪市警視庁、大阪市警察、大阪府警察)の庁舎として、 昭和35年から平成13年(2001)までは大阪市立博物館として使われた。平成29年に耐震補強ならびに外装・内装の修復や改装工事が完了し、現在は来訪者向けに土産物や飲食、 大阪城公園内の史跡に関する情報などを提供する 「ミライザ大阪城」として利用されている。

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2-6-37.本丸御殿跡

 城の中心部を本丸といい、大阪城の本丸には天守のほか政治を行うための御殿があった。豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛土をほどこし再び築かれた。幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっている。慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近にあたる。

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2-6-38.紀州御殿跡

この付近には明治18年(1885)から昭和22年(1947)まで、和歌山城二の丸御殿から移築された通称「紀州御殿」と呼ばれる建物があった。それまでの大阪城本丸は明治維新の大火により御殿や櫓など主要な建物を失っており、当時大阪城を拠点としていた陸軍はこの紀州御殿を庁舎として利用し、天皇行幸の折の行在所とした。昭和6年、本丸内に第四師団司令部庁舎が新築されると紀州御殿は大阪市の管理となり、同8年に「天臨閣」と改称された。終戦後、大阪城域が連合国軍の占領下にあった昭和22年9月12日、原因不明の失火によって全焼した。

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2-6-39.タイムカプセル EXPO'70

 「人類の進歩と調和」をテーマとした日本万国博覧会を記念して毎日新聞社松下電器産業株式会社の両社は同じ内容のカプセル2個を完成し、この地下15mに埋設しました。
 日本をはじめ世界各国の人々の協力を得て選んだ20世紀の文化所産2098点が、最新の保存技術にって特殊金属製容器に収納されています。
 私たちは限りない世界の平和と繁栄を信じて、5000年後の人類にこれを残します。
 上部のカプセルは毎世紀初頭に、下部のカプセルは6970年に開封していただくことをここにお願いします。
 1971年3月15日
 形状:球形 内容積:50万立方センチメートル 内径:1m 重量:2.12t

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2-6-40.本丸跡

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特に「本丸跡」の看板等はありませんが、この辺りから「本丸御殿」が「本丸」と思われます。

2-6-41.豊臣時代石垣遺構中之段帯曲輪跡【とよとみじだいいしがきなかのだんおびくるわあと】

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このマンホールのような中に、石垣の遺構があります。

2-6-42.大阪城上田城友好城郭提携記念碑

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上田城は、長野県上田市にあります。

2-6-43.豊臣秀吉手植えの樟【くすのき】

明治31年(1898)3月、当時大阪城を拠点とした陸軍第四師団の師団長、小川又次が植えた樟である。脇の記念碑には、秀吉が大坂築城の際に手ずから植えたとされる樟が明治維新の大火以後枯株だけになっていることを惜しみ、改めて樟を植えたと刻まれている。秀吉手植えという逸話は、今の大阪城の地表は豊臣時代と異なるため事実ではなく、明治維新後に盛り上がる秀吉顕彰の機運を背景に育まれた伝説と考えられる。昭和6年大阪城天守閣が復興され、本丸が大阪城公園として整備されてからは大阪城の「中心木」とされた。

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2-6-44.金蔵【きんぞう】

 江戸時代、幕府の金貨、銀貨を保管した建物で、幕府直営の金庫としての役割を果たした。「かねぐら」「かなぐら」とも読む。宝暦元年(1751)、この場所から南に延びていた長屋状の建物を切断・改造して築造され、以来、北西側に以前からあった金蔵を「元御金蔵【もとごきんぞう】」、この金蔵を「新御金蔵」と呼んだ。高さは約5.8メートル、面積は93.11平方メートルで内部は大小2室からなり、手前の大きな部屋には通常の出納用、奥の小さな部屋には非常用の金銀を置いた。構造は防災と防犯に特に工夫がこらされ、床下は全て石敷き、入口は二重の土戸と鉄格子戸の三重構造、小窓は土戸と鉄格子、床下の通気口にも鉄格子がはめられている。なお元御金蔵は、明治25年(1982)の配水池建設にともなって今の金蔵の東隣に移築され、さらに昭和4年(1929)、陸軍によって高槻工兵隊の敷地内に解体移築され、のちに焼失した。

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 2-6-45.残念石

 この石は元和六年(1620)から始まる大坂城修復の時天領小豆島(香川県)で割られたまま、用材石としての念願かなわず、今なお数多く残されてことから「残念石」と呼ばれている。
 この大きな石は、筑前黒田長政の石切丁場で見つかり、小さな石は豊前細川忠興の手になるものである。
 これらの石を、小豆島青年会議所が創立十周年記念事業として、「島は一つ」の社会活動の実践に、大阪青年会議所商都大阪の復権を願い「なにわの知恵」の再考にと、両会議所が共同事業として当時を再現し、小豆島よりこの地に運び据えたものである。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

2-5.大阪城 内堀

 2-5.内堀【うちぼり】

2-5-1.内堀

 本丸を取り囲む堀で、南側を空堀とするほかは水堀となっている。寛永元年(1624)開始の徳川幕府による大坂城再築第2期工事により、豊臣時代の本丸に盛り土を施して石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は豊前小倉藩細川家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家をはじめとする59家で、総延長は約2.7キロメートル、東側石垣の高さは水面から約24メートルに達する。本丸内には堀に面する石垣の角を中心に3層の櫓が11棟、2層の櫓が2棟そびえていたが、明治維新の大火により全て焼失した。

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奥に見えるのは極楽橋

2-5-2.空堀【からほり】

 本丸を囲む内堀は、東から北、さらに西にかけて水堀となっているのに対し、南とそれに続く西にかけては水のない空堀となっている。
 これに先立つ豊臣秀吉築造の大坂城でも本丸の南は空堀となっており、大坂の陣で徳川方が埋めたわけではない。なぜここだけ空堀としたのかは不明である。

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他の堀は、地下の湧水層に達しており、水の確保ができました。しかし、この堀は他の堀よりも高い位置にあるため、湧水層まで掘るためには、あと10mは掘る必要があるようです。そのため、ここは空堀になったと推測されているようです。

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 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣