2-2.大阪城 外堀
2-2.外堀
2-2-1.北外堀
大阪城二の丸の北に位置する水堀で、西が京橋口、東が青屋口である。元々一続きの堀だった東外堀、北方の旧大和川(平野川)べりとともに元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事によって石垣が築かれ、幕府の命令により因幡鳥取藩池田家・加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩)松平家などが工事を分担した。内側二の丸の西北にあたる石垣の隅には3層の伏見櫓が建っていたが、第二次大戦の空襲で焼失した。
2-2-2.東外堀
大坂城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口、南が玉造口である。元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。本来は青屋口より先の北外堀とつながっていて、総延長は合わせて約3キロメートル、堀の幅は最大約90メートルである。幕府の命令によって動員された大名は、加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩)松平家・土佐高知藩山内家など16家。大正年間、大阪砲兵工廠の敷地拡張に伴い北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀とつながらないままではあるが、現在の姿に復元された。
2-2-3.南外堀
大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再構築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。
見えているのは六番櫓。
2-2-4.西外堀
大阪城二の丸の西に位置する水掘りで、南が大手口、北東が京橋口である。石垣の総延長は約1.5km、堀の最大幅は約75mあり、元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥後熊本藩加藤家・筑前福岡藩黒田家・豊前小倉藩細川家など29家。内側の石垣上には南から千貫櫓(せんがんやぐら)(現存)・坤櫓(ひつじさるやぐら)(焼失)・乾櫓(いぬいやぐら)(現存)が建てられた。
右端が千貫櫓、左端が乾櫓。
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