2-4.大阪城 西の丸庭園

2-4.西の丸庭園

 古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んだことが知られています。徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大坂城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交替で城の管理にあたりました。
 明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。

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2-4-1.大坂城代屋敷跡【おおさかじょうだいやしきあと】

現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の際の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

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2-4-2.尾止坂跡【おとめざかあと】

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西の丸庭園入口から右側を歩いていると、右の奥にもう一つの出入口の門がある。その門に向かってなだらかに下っている坂が「尾止坂」。

2-4-3.北仕切門

徳川幕府によって再築された大阪城の二の丸には、各区画を仕切るための石組が5か所あり、それぞれに設けられた門を仕切門と呼んだ。西の丸から北に通じるこの門は北仕切門といい、大坂城代の管理のもと城内に勤務する武士たちの通行を監視した。両側の石組を食い違いとし門が東西に開いているのは、南北の直進を妨げる防御上の工夫である。戊辰戦争の際の火災によって門が失われ、昭和38年(1963)に現在の門が再建されたが、外観や構造は江戸時代の実態とは異なる。

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尾止坂に続く門。

2-4-4.大阪迎賓館

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2019G20大阪サミットの晩餐会がここで行われました。

2-4-5.焔硝蔵【えんしょうぐら】

徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁【はり】をすべて花崗岩【かこうがん】とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。

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2-4-6.乾櫓【いぬいやぐら】

乾(戌亥)は西北をあらわす言葉で、西の丸の西北に位置することからこの名がついている。大手口【おおてぐち】から京橋口【きょうばしぐち】までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、堀をへだてた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれた。戦後の解体修理の際、「元和六年甲【(申)】ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」とへら書きされた瓦が検出され、創建が元和6年(1620)であることがわかった。すなわち乾櫓は千貫櫓【せんがんやぐら】と同じく、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された年に築かれた、大坂城に残る最も古い建造物である。高さは約10.3メートルで2層2階建て、面積は1階の石落とし部分をのぞくと各階とも約186.23平方メートルで、L字型の総2階造りという非常に珍しい構造をもつ。この時期築かれた櫓の工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。

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2-4-7.坤櫓跡【ひつじさるやぐらあと】

ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる元和6年(1620)と推定され、東西8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣