2-7.天守閣

 2-7.天守

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  現在の天守閣は昭和6年(1931)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。古典建築を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。初代の天守は、豊臣秀吉が大坂築城を開始して3年目となる天正13年(1585)に完成したが、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で城もろとも焼失。二代目の天守徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。以来大坂城天守の無い城郭として幕末に至る。三代目となる現在の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2次世界大戦の空襲でも焼失をまぬがれた。平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。

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 鯱【しゃちほこ】。

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数寄屋前櫓跡の天守閣寄りの場所は、雨が降ると大きな水たまりができます。雨が上がった後には、逆さ天守閣が綺麗に見えることも。

2-7-1.金明水井戸屋形【きんめいすいいどやかた】

大坂城の小天守台【しょうてんしゅだい】にある井戸を金名水といい、それを覆う面積11.55平方メートル、高さ5.2メートルの建物を金名水井戸屋形という。井戸は水面まで約33メートル、井筒は一個の石をくり抜いたもので、外部の水流しは4枚の大石を組み合わせて敷き詰めている。伝説では豊臣秀吉が、水の毒気を抜くために黄金を沈めたと言われているが、戦後の学術調査により、この井戸は豊臣時代のものではなく、徳川幕府による大坂城再築工事に寛永元年(1624)に新たに掘られたものであること、さらに井戸屋形は同3年(1626)に創建された当時のもので、同じ年に築かれた天守が寛文5年(1665)に焼失した際にも類焼をまぬがれたことが判明した。なお江戸時代までこの井戸は黄金水【おうごんすい】と呼ばれ、本来の金名水(金水)は天守の東側、現在の配水池のあたりにあった。

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2-7-2.号砲

この大砲は、全長348㎝、砲口の内径20㎝、外径40㎝先込め式の旧式砲で、材質は青銅の一種とみられる。

1863年、幕府の命令により、美作津山藩【みまさかつやまはん】(岡山県津山市)の鋳工・百済清次郎らが製造し、大坂天保山砲台の備砲として据え付けられ、明治維新後、大阪城内に移されたものと伝える。

明治3年(1870)から時刻を知らせる号砲として用いられ、はじめは日に3度、明治7年からは正午のみ空砲が大阪市内にとどろきわたり、「お城のドン」、「お午【ひる】のドン」の名で市民に親しまれた。火薬節約その他の理由により大正12~3年(1923~24)頃中止されたが、その時期と事情ははっきりしていない。

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2-7-3.小天守

天守閣前の金名水井戸屋形や号砲が置かれている一帯。天守は作られなかったとのこと。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣