2-4.大阪城 西の丸庭園

2-4.西の丸庭園

 古く豊臣時代の西の丸には多くの御殿が建ち並び秀吉没後、慶長4年(1599年)には秀吉の正室「北の政所」が一時住み、その後、慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦まで、徳川家康が移り住んだことが知られています。徳川時代に入り、元和5年(1619年)、内藤信正が初代の「大坂城代」となり、翌元和6年(1620年)すっかり築き直しました。その後、明治維新(1868年)まで、70代の城代が交替で城の管理にあたりました。
 明治以降は軍用施設として使用されていましたが、徳川時代の「西の丸」跡地と、その南側に続いていた「城代屋敷」跡地などを一つにまとめ、昭和40年(1965年)西の丸庭園として開園しました。

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2-4-1.大坂城代屋敷跡【おおさかじょうだいやしきあと】

現在の西の丸庭園の南側には江戸時代、幕府重職で大坂城の防衛や維持管理の最高責任者である大坂城代の屋敷(官邸)があった。東向きの玄関は唐破風造りで、公務を行う広間や書院だけでなく、城代の妻子が居住する建物も備えており、本丸御殿に次ぐ規模の御殿であった。明治維新の際の火災で焼失。ここは城代屋敷の表門付近にあたる。

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2-4-2.尾止坂跡【おとめざかあと】

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西の丸庭園入口から右側を歩いていると、右の奥にもう一つの出入口の門がある。その門に向かってなだらかに下っている坂が「尾止坂」。

2-4-3.北仕切門

徳川幕府によって再築された大阪城の二の丸には、各区画を仕切るための石組が5か所あり、それぞれに設けられた門を仕切門と呼んだ。西の丸から北に通じるこの門は北仕切門といい、大坂城代の管理のもと城内に勤務する武士たちの通行を監視した。両側の石組を食い違いとし門が東西に開いているのは、南北の直進を妨げる防御上の工夫である。戊辰戦争の際の火災によって門が失われ、昭和38年(1963)に現在の門が再建されたが、外観や構造は江戸時代の実態とは異なる。

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尾止坂に続く門。

2-4-4.大阪迎賓館

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2019G20大阪サミットの晩餐会がここで行われました。

2-4-5.焔硝蔵【えんしょうぐら】

徳川幕府が、鉄砲や大砲に使用する焔硝(火薬)を保管した蔵で、現在の焔硝蔵は貞享2年(1685)に建造されたもの。焔硝蔵はそれ以前にも城内数か所にあったが、青屋口にあった土蔵造りの焔硝蔵は万治3年(1660)に落雷を受けて大爆発を起こし、また別の場所にあった半地下式の焔硝蔵も部材の腐食による立て直しがたびたびなされるなど、幕府は焔硝の有効な保管方法に苦慮していた。そうした課題を克服すべく、この焔硝蔵では耐火・耐久・防水に特に工夫がこらされ、床・壁・天井・梁【はり】をすべて花崗岩【かこうがん】とし、石壁の厚さは約2.4メートル、屋根の下は土で固められている。面積は約171.9平方メートル、高さは約5.4メートルで、こうした石造りの火薬庫はわが国では他に例がない。徳川時代大坂城には、西日本における幕府の軍事拠点として、焔硝のほかにも大量の兵糧や武器武具が備蓄されていた。

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2-4-6.乾櫓【いぬいやぐら】

乾(戌亥)は西北をあらわす言葉で、西の丸の西北に位置することからこの名がついている。大手口【おおてぐち】から京橋口【きょうばしぐち】までの広い範囲を見渡す重要な地点にあり、また、堀をへだてた城の外側の南・西・北のどの方角からも望めたことから「三方正面の櫓」とも呼ばれた。戦後の解体修理の際、「元和六年甲【(申)】ノ九月吉日 ふかくさ 作十郎」とへら書きされた瓦が検出され、創建が元和6年(1620)であることがわかった。すなわち乾櫓は千貫櫓【せんがんやぐら】と同じく、徳川幕府による大坂城再築工事が開始された年に築かれた、大坂城に残る最も古い建造物である。高さは約10.3メートルで2層2階建て、面積は1階の石落とし部分をのぞくと各階とも約186.23平方メートルで、L字型の総2階造りという非常に珍しい構造をもつ。この時期築かれた櫓の工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。

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2-4-7.坤櫓跡【ひつじさるやぐらあと】

ここには二の丸の隅櫓の一つが建っていて、西の丸の南西(坤)にあたることから坤櫓とよばれた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の初年にあたる元和6年(1620)と推定され、東西8間・南北7間の二層構造、窓は西面・南面を中心に25あった。規模は南に現存する千貫櫓とほぼ同じである。明治維新の大火にも耐えて残ったが、第二次大戦の空襲で焼失した。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

2-3.大阪城 二の丸への出入口と二の丸

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

2-3-1.京橋口

 大阪城の西北の出入口。北方の寝屋川(旧大和川)に京都へ通じる「京橋」が架けられていることから、「京橋口」もしくは「京口」と呼ばれた。戦前までは江戸時代以来の京橋門が残り、枡形には大手口と同様に多聞櫓もあって、大阪城の名所となっていたが、昭和20年(1945)の空襲によって全焼した。

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2-3-2.京橋口枡形の巨石(肥後石)

 京橋口枡形のうち、京橋口を入って正面に見えるのが、表面積が畳約33畳敷(54.17平方メートル)にもなる城内第2位の巨石「肥後石」である。築城の名手加藤肥後守清正が運んできたと伝えられてきたが、実際は徳川幕府による大坂城再築時に、この区域の石垣築造を担当した備前岡山藩主池田忠雄によって運ばれた。肥後石の左手が京橋口二番石で、表面積が畳22畳敷(36.00平方メートル)の、城内第7位の巨石である。

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肥後石。

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京橋口2番石。

2-3-3.こま犬

 この一対の「こま犬」は中国・明の時代の文化遺産で、それぞれ高さ約3メートル、重さ約2.9トンある。日中戦争の最中に日本へ運ばれ、当時陸軍第四師団司令部のあった大阪城内に置かれた。戦後も長らく山里口出枡形の東付近に置かれていたが、昭和59年(1984)、中国政府により改めて大阪市に寄贈されることとなり、現在の場所に移された。以来この「こま犬」は、両国人民の友好関係を促進し、友誼【ゆうぎ】を深める象徴となっている。脇に建立された記念碑には、変わらぬ中日友好への願いをあらわした「中日友好 萬古長青」の文字が刻まれており、これは当時の宋之光中華人民共和国中日本国特命全権大使の筆になる。

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2-3-4.京橋口定番屋敷跡【きょうばしぐちじょうばんやしきあと】

 江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。敷地内には公務を行う表御殿、家族が暮らす奥御殿が建ち、家臣の詰める小屋などもあったが、いずれも明治維新の大火によって焼失し、跡地には軍により士官学校の施設がつくられた。

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2-3-5.「ばけもの屋敷」跡

 伏見櫓の内側一帯には、江戸時代のはじめ金奉行の役宅が置かれていたが、やがて空き地となり、いつしか「ばけもの屋敷」とよばれるようになった。大阪城を管理する重職である京橋口定番の屋敷(公邸)はこの南側に隣接しており、代々の定番にはここに住み着く妖怪がとりつくと恐れられたが、享保年間(18世紀はじめ)に着任した戸田大隅守という大名が退治したと伝える。

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2-3-6.伏見櫓跡

徳川大坂城の二の丸に建っていた櫓のうち、唯一3層だった櫓で(ほかの櫓は全て2層)、伏見城からの移築と伝える。付近の街道から望む優美な姿が江戸時代以来親しまれ、明治維新の大火でも類焼をまぬがれたが、昭和20年(1945)の空襲で全焼した。

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2019年には、「サクヤルミナ」というイベントが催されており、そのイベントで登場するキツネの像が設置されています。

2-3-7.西仕切門跡

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御座船乗り場の向かい側に残されています。

2-3-8.東仕切門跡

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青屋門から入って右側の駐車スペースにあります。

2-3-9.青屋門

 青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋門はその枡形【ますがた】の内側に建つ。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945)の空襲で再び大破した。昭和44年(1969)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画の事で、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とは異なり外側に突き出す出桝形【でますがた】だった。さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。

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2-3-10.人面石

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青屋門から入り左に。内堀に沿って雁木坂に向かって少し進むとこの石垣が見えます。

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鬼門の方角(本丸の東北)に、災い除けのため人間の顔の形をした石を積み込んだと言われているそうです。

2-3-11.市正曲輪【いちのかみくるわ】 梅林

 現在の大阪城梅林の地は、豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐東一正勝元【ひがしいちのかみかつもと】の屋敷がここにあったと伝えることから「一正曲輪」とよばれる。江戸時代には、大坂城を守衛する役職の内、青屋口加番【かばん】・中小屋加番・雁木坂【がんぎざか】加番の小屋(公舎)が北から順に置かれていた。

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この梅林は、北野高校の100周年記念として同窓生から梅が寄贈され、昭和49年に開園されました。

2-3-12.雁木坂【がんぎざか】

 大坂城の本丸を取り囲む二の丸は北が低く、内堀の東にあたるこの通路は南から北にかけて急な下り坂となっている。江戸時代ここは長い石段(雁木)だったことから雁木坂とよばれ、さかを上りきった所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた。明治維新以降の陸軍管轄時代にはダラダラ坂とも呼ばれた。現在、盛土によって坂の勾配はゆるやかになっている。

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2-3-13.雁木坂門跡

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わずかに石が少しだけ残されています。

2-3-14.石山本願寺と大阪(大坂)

 明応5年(1496)、本願寺第8代宗主蓮如摂津国東成郡生玉庄内の大坂に坊舎を築いた。「大坂」という地名が歴史上初めてあらわれるのは、明応7年(1498)11月21日付の蓮如の『御文(御文章)』とされている。
 この坊舎を中心にして周囲に土居と堀を巡らせた「六町の構」といわれた寺内町が形成された。
 天文元年(1532)に山科本願寺が炎上すると、本願寺はこの地に移され、本願寺教団の中心となった。
 大坂(石山)本願寺寺内町では、御影堂・阿弥陀堂を中心に、六町二千軒におよぶ町屋が建ち並んでいた。たくさんの職人や商人が生活しており、当時の堺とならぶ豊かな都市生活がくりひろげられていた。
 やがて本願寺織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年間に及ぶいわゆる石山合戦の後、大坂を退去し、鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591)に京都へ移転した。
 一方、秀吉は大坂(石山)本願寺寺内町の跡に大坂城を建設した。この大坂城大坂夏の陣で炎上したが、江戸幕府によって再建される。
 大坂(石山)本願寺の遺構はいまだ確認されていない。しかし、この大坂城公園の辺りがその遺構と推定され、現在の商業都市大阪の礎となったといわれている。

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2-3-15.蓮如上人袈裟がけの松【れんにょしょうにんけさがけのまつ】

 豊臣秀吉大坂城を築く以前の戦国時代、浄土真宗本願寺第八世蓮如上人は、現在の大阪城の地に坊舎を作り(大坂御坊)今は切り株だけになっているこの松に袈裟をかけ、宗派の繁栄を祈ったといわれる。切り株は徳川幕府が再築した大坂城の地表にあることから、これはあくまで伝説に過ぎないと考えられるが、西側に「南無阿弥陀仏」の石柱が建てられるなど、大坂(石山)本願寺時代の記憶をとどめる史跡として保護されている。

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2-3-16.玉造口定番屋敷跡【たまつくりぐちじょうばんやしきあと】

 江戸時代、ここには幕府の要職である大坂定番に就任した大名の屋敷(公邸)があった。大坂定番は定員が2名で、そのうち玉造口定番は二の丸玉造口の内側に屋敷をもち、玉造口守衛のほか、京橋口定番とともに城に勤める下級役人を統率し、大坂城守衛の首班である大坂城代を補佐して西日本の支配にもたずさわった。建物は明治維新の大火で焼失。跡地には軍事病院が建てられ、明治10年(1877)に起きた西南戦争では、戦地から戻った多くの傷病兵が収容された。

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2-3-17.艮櫓跡【うしとらやぐらあと】

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玉造口から入った正面の右奥がその場所のようです。

2-3-18.巽櫓跡【たつみやぐらあと】

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玉造口から入ってすぐの右手前がその場所のようですが、現在は通行止めにされており、その場所にいくことはできません。

2-3-19.玉造口【たまつくりぐち】

 大坂城の東南の出入口にあたる。ここに建っていた玉造門の内側には、江戸時代には大手口【おおてぐち】や京橋口と同様、石垣造りの枡形が造られ、上に多聞櫓【たもんやぐら】が建っていた。多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱に伴う大火によって焼失し、その後大阪城を管轄下に置いた陸軍の手により枡形が撤去された。焼け残った玉造門も撤去されたため、現在では門の両側の石組み以外は旧観をとどめていない。「玉造」の地名は古代にまでさかのぼり、古墳時代、勾玉【まがたま】・管玉【くがたま】など装飾用の石を作った

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2-3-20.一番櫓【いちばんやぐら】

 二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は最も東に位置することから「一番櫓」という。外側にあたる東面と南面を中心に窓が16あるほか、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ、玉造口【たまつくりぐち】に攻め入る敵を側面から一斉に迎撃することができた。東面には石垣を登ろうとする敵を撃退する石落としも設けられている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)と考えられ、戦後の解体修理の際に発見された部材の墨書銘により、創建後の主な修復は万治年間(1658~61)・寛文8年(1668)・天保3年(1832)の3度だったと推定される。中でも天保3年は解体を伴う大規模なもので、建物下の栗石【ぐりいし】の間から当時のものとみられる衣類が検出されている。面積は1階が167.98平方メートル、2階が約96.31平方メートル、高さは14.3メートルである。なお、一番から七番までの櫓のうち、現存するのはこの一番櫓と六番櫓のみである。

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二番櫓、三番櫓、四番櫓は焼失し、櫓跡のみがある。

2-3-21.二番櫓跡

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2-3-22.東大番頭小屋跡(衛戍監獄跡)【ひがしおおばんがしらごやあと(えいじゅかんごくあと)】

江戸時代、徳川将軍直属部隊の一つである大番は1組50騎の計12組からなり、各組は部隊長にあたる大番頭に率いられ、2組が1年交替で大坂城に在番し本丸の警備を主務とした。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西にわけられて置かれ、大番頭には特に広い敷地が与えられた。ここは東大番頭の小屋跡にあたり、大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が立ち並んでいた。いずれの建物も明治維新の大火で焼失し、跡地は陸軍の刑務所(衛戍監獄)となり、戦時中には第4師団司令部が置かれた。

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2-3-23.豊国神社

豊臣秀吉、秀吉の子秀頼、秀吉の弟秀長をまつる。秀吉は慶長3年(1598)に死去すると神格化されて「豊国大明神」となり、京都をはじめ各地に豊国社が建てられたが、豊臣家滅亡とともに姿を消した。復活の契機となったのは明治維新で、慶応4年(=明治元年、1868)に大阪へ行幸した明治天皇が再興を命じ、大阪では京都の豊国神社の分社として、明治12年に現在の大阪市中央公会堂の場所に創建された。大正元年(1912)には現在の大阪市役所の場所、昭和36年(1961)には大阪城二の丸南の現在地に移転した。同社の名称は、京都の豊国神社から独立した大正9年以降、豊国神社となった。

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2-3-24.豊臣秀吉銅像

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2007年に建立。

2-3-25.秀石庭【しゅうせきてい】

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見る角度によって、庭全体に石が点在しているようにも見えるし、奥に固まっているようにも見える不思議な庭です。

秀石庭の名前は、「秀吉」と「石山本願寺」の一文字ずつを取って名づけられたそうです。昭和47年に、重森三玲【しげもりみれい】によって作庭されました。

2-3-26.東大番衆小屋跡【ひがしおおばんしゅうごやあと】

大坂城徳川幕府の城だった江戸時代、この付近から現在の豊国神社の社地にかけての一帯に「大番」と呼ばれる将軍直属の旗本部隊の小屋(宿営)があった。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交代で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋で起居し、大坂城本丸の警備などをつとめた。大番の職は幕末の慶応3年(1867)5月に廃止され、大番衆小屋は翌年に起きた明治維新の大火で焼失した。

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2-3-27.三番櫓跡

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2-3-28.四番櫓跡

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2-3-29.五番櫓跡

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2-3-30.西大番衆小屋跡【にしおおばんしゅうごやあと】

大坂城が徳川将軍の城だった江戸時代、ここには大坂城本丸の警備を主な任務とする将軍直属の旗本部隊「大番」の小屋(宿営)が置かれていた。大番は1組50騎の12組からなり、2組が1年交代で城内二の丸南に置かれた東西の大番衆小屋にて起居した。西大番衆小屋の範囲は現在の修道館の敷地とほぼ重なる。慶応4年(=明治元年、1868)1月に勃発した戊辰戦争の際には、新選組を含む旧幕府軍の兵の滞在場所として東西大番衆小屋が使われたが、旧幕府軍撤退時に起きた城中の大火により焼失した。

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2-3-31.石山本願寺推定地

 明応5年(1496)に、本願寺八世蓮如が生玉庄の大坂に大坂坊舎を建立した。これは現在のところ「大坂」の地名が史料上に現れる初例である。
 天文日記によると大坂坊舎は生玉八坊のひとつ法安寺の東側に建立されたといわれ、当時は小堂であったと考えれらる。
 その後細川氏をはじめとする諸勢力との権力闘争の中で大坂の重要性が増すとともに、天文元年(1532)に六角定頼と法華宗徒により山科本願寺が焼き打ちされるに及んで、本願寺教団の本拠である石山本願寺に発展した。
 石山本願寺周辺は、山科と同様に広大な寺内町が造営された。この造営が現在の大阪の街並みの原型となったと考えられる。
 その十一世顕如の時代に、信長との石山合戦に敗れ、石山本願寺を退去した本願寺教団は、鷺森、貝塚、天満を経て京都堀川に本拠を移転する。
 一方、石山本願寺跡には豊臣秀吉によって大坂城が建設される。この時に、大規模な工事により地形的にかなりの改造が加えられたと考えられる。さらに大坂夏の陣ののち徳川大坂城が建設されるに際して再び大規模な土木工事が行われた。
 このような状況のため、石山本願寺跡の正確な位置や伽藍跡についてはいまだ確認されていないが、現在の大阪城公園内にあたることは確実と考えられている。

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左側は修道館。

2-3-32.六番櫓【ろくばんやぐら】

 二の丸南側の石垣上には、2層2階でほぼ同規模の隅櫓【すみやぐら】が、東から西へ一番から七番まで建っていた。この櫓は東から六番目であることから「六番櫓」という。外側にあたる南面と西面に石落としを1か所ずつ設け、窓は外側を中心に26、鉄砲や矢を放つための狭間【さま】も多数あけられ、外敵に備えた堅固なつくりをなしている。創建は徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にあたる寛永5年(1628)で、上層の破風【はふ】を飾る東西の懸魚【げぎょ】のうち、西側の懸魚の裏側に「寛永五暦辰拾月吉日」と書かれている。面積は1階が224.16平方メートル、2階が約133.43平方メートル、高さは15.4メートルである。

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2-3-33.南仕切門跡・太鼓櫓跡【みなみしきりもんあと・たいこやぐらあと】

 二の丸の西と南の区域は石垣によって仕切られ、通路にあたるこの個所に建っていたのが南仕切門である。また門の西側石垣の上には太鼓櫓とよばれる二層の櫓があり、ともに徳川幕府による大坂城再築工事の最終段階にたいこやぐrあたる寛永5年(1628)に創建されたと考えられる。太鼓櫓は城内の櫓のうち最も小規模で、中に太鼓が納められていた。ここには太鼓坊主とよばれる僧形【そうぎょう】の役人が交替で詰め、彼らは香【こう】をたいて時刻を計り、城内勤務の大名や旗本以下の召集や交替、あるいは緊急時に太鼓を打ち鳴らしたいずれの建物も慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火によって焼失した。

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2-3-34.西大番頭小屋跡【にしおおばんがしらこやあと】

江戸時代、徳川将軍直属の部隊の一つである大番は、1組50騎の計12組からなり、それぞれ部隊長である大番頭【おおばんがしら】に率いられ、うち2組が1年交代で大坂城本丸の警備にあたった。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西にわけられて置かれ、大手口枡形の南東側となるこの一帯には西大番頭の小屋があった。敷地には大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が立ち並んでいた。明治維新後、跡地には陸軍関連施設が建てられ、その頃の門柱や左右の塀がわずかに残る。

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2-3-35.七番櫓跡

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七番櫓跡は、大阪城の管理事務所の敷地内にあり、中から見ることはできません。

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天気が良く風も穏やかな日は、この角度から見る櫓跡と6番櫓は、内堀に移る姿が、とても美しい!

2-3-36.西ノ丸仕切門

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西ノ丸庭園の入り口がそれ。

2-3-37.大手門【おおてもん】

 城の正面を大手(追手【おって】)といい、その入口を大手口(追手口)、設けられた門を大手門(追手門)とよぶ。現存する大阪城の大手門は寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再築工事のさいに創建された。正面左右の親柱【おやばしら】の間に屋根を乗せ、親柱それぞれの背後に立つ控柱【ひかえばしら】との間にも屋根を乗せた高麗門【こうらいもん】形式である。屋根は本瓦葺【ほんがわらぶき】で、扉や親柱を黒塗総鉄板張【くろぬりそうてついたばり】とする。開口部の幅は約5.5メートル、高さは約7.1メートル。親柱・控柱の下部はその後の腐食により根継【ねつぎ】がほどこされているが、中でも正面右側の控柱の継手【つぎて】は、一見不可能にしか見えない技法が駆使されている。門の左右に接続する大手門北方塀・大手門南方塀も重要文化財に指定されている。

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左端が千貫櫓、その右が多聞櫓、その右が大手門。

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大手門左側の石垣。徳川時代に3期に分けて石垣は作られました。この石垣は、初期に組まれたので、石の形や積み上げ方が、後期に組まれた下記の大手門右側の石垣に比べ不揃いです。

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大手門右側の石垣。上記の左側に比べ石が揃っている。石の積み方も、初期より後期にかけて、スキルが上達していることが伺えます。

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一見不可能にしか見えない継手の場所。

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一見不可能にしか見えない継手。

2-3-38.大手口枡形の巨石

 枡形とは城の主要な出入り口に設けられた四角い区画の事で、敵の侵入を食い止める役割を果たした。築城技術の進歩に伴って強固な石垣造りのものがあらわれ、大阪城の大手口枡形では城の威容を誇示する巨石が数多く使用されている。大手門をくぐって正面に位置する大手見附石【おおてみつけいし】は、表面積が約29畳敷(47.98平方メートル)で城内第4位、左の大手二番石は約23畳敷(37.90平方メートル)で第5位、右の大手三番石は約22畳敷(35.82平方メートル)で第8位、いずれも砕石地は瀬戸内海の小豆島と推定されている。現存する大阪城の遺構は豊臣時代のもではなく、元和6年(1620)から約10年にわたった徳川幕府再築工事によるもので、石垣は将軍の命令を受けた諸大名が分担して築いた。この個所は当初肥後熊本藩主加藤忠弘が築き、のちに筑後久留米藩有馬豊氏【ありまとようじ】が改築した。

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大手見附石と大手二番石は、その石の模様と石の膨らみから、一つの石を二つに分けたものと思われる。

小さい丸で囲った黒い模様が二つの石で同じ形になっています。

2-3-39.市多聞跡【いちたもんあと】

 江戸時代、大坂城の大手口枡形には、現存する多聞櫓のほか、南側に東西13間5尺、南北3間の独立した多聞櫓が建っていた。大手口枡形内には定期的に商人の入場が許可され、この櫓の中で、一年交代で城に詰めた旗本(大番衆)が日用品を調達するための市が開かれたことから、市多聞という名がついた。明治維新の大火によって焼失し、現在は礎石のみが残る。大手門から南にのびて東に折れる塀のうち市多聞跡と重なる部分は、市多聞焼失後に築かれたものである。

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2-3-40.多聞櫓【たもんやぐら】(続櫓【つづきやぐら】、渡櫓【わたりやぐら】)

 大手口桝形の石垣の上に立つ櫓で、大門の上をまたぐ渡櫓と、その右側に直角に折れて接続する続櫓【つづきやぐら】によって構成される。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永5年(1628)に創建されたが、天明3年(1783)の落雷によって全焼し、嘉永元年(1848)に創建された。土塁や石垣上に築かれた長屋上の建物を一般に多聞(多門)とよぶが、その名称は戦国時代の武将松永久秀【まつながひさひで】が大和国(今の奈良県)の多聞城でこうした形式の櫓を初めて築いたことに由来するといわれる。現存する多聞櫓の中でもこの多聞櫓は最大規模で、高さは約14.7メートル、建築総面積は約710.25平方メートルある。渡櫓内部には70畳敷を最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳・12畳・15畳の部屋が計6室あって多数の兵や武器を蓄えることができ枡形の内側に多くの窓があり、また大門をくぐる敵を真上から攻撃する「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えている。大阪城の二の丸には京橋口・玉造口にも多聞櫓があったが、現存するのはここだけである。

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続櫓。

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渡櫓。

2-3-41.千貫櫓【せんがんやぐら】

 大阪城の大手口【おおてぐち】を守る重要な隅櫓【すみやぐら】である。西側と南側は堀に面し、大手門に向かう敵を側面から攻撃することができた。創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620)で、戦後の解体修理工事の際、墨書で「元和六年九月十三日御柱立つ」と上棟式の日を記した部材が見つかった。二の丸北西に現存する乾櫓【いぬいやぐら】と同様に大坂城最古の建造物で、いずれも工事責任者は、茶人としても有名な小堀遠州【こぼりえんしゅう】である。具体的な場所や規模は不明ながら、前身となる豊臣秀吉築造の大坂城にも千貫櫓はあり、さらにそれよりも前、織田信長が大坂を領していたころにも千貫櫓はあった。名称の由来に関しては、織田信長がこの地にあった大坂(石山)本願寺を攻めた際、一つの隅櫓からの横矢に悩まされ、「千貫文の銭を出しても奪い取りたい櫓だ」と兵士たちの間で噂されたという逸話が残っている。面積は1階が約217.26平方メートル、2階が約162.95平方メートル、高さは約13.5メートルである。

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西ノ丸庭園内から見た千貫櫓。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

2-2.大阪城 外堀

 2-2.外堀

2-2-1.北外堀

 大阪城二の丸の北に位置する水堀で、西が京橋口、東が青屋口である。元々一続きの堀だった東外堀、北方の旧大和川平野川)べりとともに元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事によって石垣が築かれ、幕府の命令により因幡鳥取藩池田家・加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩松平家などが工事を分担した。内側二の丸の西北にあたる石垣の隅には3層の伏見櫓が建っていたが、第二次大戦の空襲で焼失した。 

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2-2-2.東外堀

 大坂城二の丸の東に位置する水堀で、北が青屋口、南が玉造口である。元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。本来は青屋口より先の北外堀とつながっていて、総延長は合わせて約3キロメートル、堀の幅は最大約90メートルである。幕府の命令によって動員された大名は、加賀金沢藩前田家・越前北庄藩(福井藩松平家・土佐高知藩山内家など16家。大正年間、大阪砲兵工廠の敷地拡張に伴い北外堀を残して埋め立てられた。平成9年(1997)、東外堀とつながらないままではあるが、現在の姿に復元された。

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2-2-3.南外堀

 大阪城二の丸の南に位置する堀で、西が大手口、東が玉造口である。石垣の総延長は約2キロメートル、堀の最大幅は約75メートルあり、寛永5年(1628)、徳川幕府による大坂城再構築第3期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥前佐賀藩鍋島家・加賀金沢藩前田家・因幡鳥取藩池田家・筑前福岡藩黒田家など57家。内側の石垣上には東から一番櫓から七番櫓まで七棟の隅櫓が建造された。櫓は明治維新の大火により四番・五番・七番を失い、さらに第二次大戦の空襲により二番・三番を失って、現在は一番櫓と六番櫓だけが残る。

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見えているのは六番櫓。

2-2-4.西外堀

  大阪城二の丸の西に位置する水掘りで、南が大手口、北東が京橋口である。石垣の総延長は約1.5km、堀の最大幅は約75mあり、元和6年(1620)、徳川幕府による大坂城再築第1期工事により、豊臣時代大坂城の堀跡に改めて石垣が築造された。幕府の命令によって動員された大名は肥後熊本藩加藤家・筑前福岡藩黒田家・豊前小倉藩細川家など29家。内側の石垣上には南から千貫櫓(せんがんやぐら)(現存)・坤櫓(ひつじさるやぐら)(焼失)・乾櫓(いぬいやぐら)(現存)が建てられた。

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右端が千貫櫓、左端が乾櫓。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

2-1.大阪城 外堀の外

2-1.外堀の外

2-1-1.豊臣大坂城三の丸北端の石垣(移築復元)

この石垣は、大坂城三の丸の石垣の一部をここに移築し、発見されたままの姿を復元したものです。

豊臣時代の大坂城三の丸は、豊臣秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598)に大坂城の防御強化のために造られました。しかし、慶長19年(1614)に大坂冬の陣の講和条件として徳川家康によって取り壊され、地中深く埋もれてしまいました。

平成元年(1989)の大阪府立女性総合センターの建設にともなう発掘調査で、再び姿を現しました。地表下約2mのところに東西21mにわたって発見されたこの石垣は、上部は崩されていましたが、今まで見つかった豊臣時代の石垣の中で最も残存状態の良いもので、当時の大坂城の面影を今に伝えています。

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ドーンセンターの北側に復元されています。

2-1-2.豊臣時代石垣遺構

この石垣は、昭和五十年二月本社屋建設工事の際、敷地内地下から発見された古い石垣遺構の一部を移築したもので、その大部分は本社屋東北隅に移築復元してあります。

大阪府、市教育委員会の緊急学術調査の結果、石材は全て大阪城の現存する石垣と同様に、生駒・六甲・笠置など近郊のほか、小豆島・犬島・与島・庵治・青木など瀬戸内産の花崗岩であり、諸大名の家紋などを示す刻印も見つかりました。そしてこの遺構が元和六(1620)年の大坂城再築のころ城北の総堀に見立てた旧大和川と淀川との合流点付近の、旧大和川左岸の護岸用石垣として築かれたものと推定されました。

石垣は地下約4メートル、海抜2.35~2.80メートルの天端(てんば:擁壁などの構造物の各部の最頂部)から下へ3~5段、根石からの高さ1.4~1.8メートルで、北面して積まれ、東西にほぼ70メートル余連続して残存していました。

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東北隅の石垣。寝屋川の対岸から見ることができます。

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日本経済新聞社大阪本社の裏手(南側)にもあります。

2-1-3.豊臣氏大阪城石垣遺構

これまでこの辺り一帯は、豊臣秀吉が築城した大坂城の三の丸の跡地と言われてきました。しかし、平成15年の(公財)大阪府文化財センターの調査により、三の丸の理解に大きな変更が迫られました。現在は、京橋口馬出し曲輪の跡地と想定されています。

この曲輪は、秀吉の晩年にあたる慶長3年(1598年)に、第四期工事として城郭の防御力強化のために作られたようです。作られた石垣は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣による講和条件で埋め立てられてしまい、当時の様子を完全にうかがうことはできませんが、周辺の建設にともなう発掘調査で再び姿を現し、一部ではありますが、当時の面影を垣間見ることができるようになりました。石垣は生駒山系、六甲山系から運ばれた花崗岩が使われ、自然石の形を利用した『野面積』という積み方で、現存の大阪城とは趣が異なります。

『金城見聞録』所収の古図によると、この曲輪は「サウノ丸」と呼ばれ、内部には豊臣秀頼の妻となる千姫の輿入れの際、祖父・徳川家康によって付けられた江原与右衛門の屋敷がありました。「サウノ丸」は別の絵図には「像之丸」と書かれ、徳川家康から豊臣秀頼に贈られた像を飼っていた場所であった可能性があります。(追手門学院小学校前に掲示されている「豊臣大坂城ゆかりの地」より)

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追手門学院小学校の西側には「おうてもん石垣ギャラリー」が設けられており、外から覗くことはできます。

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中に入ることができるのは、学校関係者に限られるようです。

2-1-4.筋鉄門跡【すじがねもんあと】

 元和6年(1620)に開始された徳川幕府による大坂城再工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北の外曲輪(三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入り口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪後に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、現在は左右の石組だけが残る。

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2-1-5.旧砲兵工廠【こうしょう】化学分析場(大阪砲兵工廠の鉄材残滓【ざんし】)

国内最大の規模を持つ軍事工場、大阪砲兵工廠の数少ない遺構の一つで、大正8年(1919)に完成した。設計者は当時陸軍の技師として第四師団や砲兵工廠関係施設の設計にたずさわった建築家置塩章【おしおあきら】である。赤レンガを用いたネオ・ルネサンス風の2階建てで、ここで兵器の研究開発や化学実験が行われたとみられる。第二次世界大戦の空襲による破壊をまぬがれ、戦後は国の庁舎、大阪大学工学部の校舎、自衛隊の庁舎として使われた。建物南の園路沿いに残る巨大な鉄の塊も砲兵工廠時代の遺物で、溶鉱炉から取り出された鉄のかすと考えられている。

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2-1-6.桃園【とうえん】

 

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奥に見えるのは桜。桃は、ピンクと白があり、1本の木にピンクと白が混在しているものがあります。

2-1-7.砲兵工廠荷揚げ門跡【ほうへいこうしょうにあげもんあと】

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大阪城ホール裏の第二寝屋川沿いにあります。

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2-1-8.砲兵工廠跡(御蔵曲輪跡)【ほうへいこうしょうあと(おくらくるわあと)】

大阪砲兵工廠は大砲生産を中心とした近代日本最大級の軍事工場で、明治3年(1870)この付近に設置された造兵司(ぞうへいし)を発祥とする。民需品も手がけるなどして大阪における近代工業化の推進役を担い、敷地はここを中心に現在の大阪ビジネスパーク一帯、森の宮方面、さらに大阪環状線の東まで広がった。昭和20年(1945)の空襲によって壊滅し、残っていた元本館の建物は大阪市により昭和56年に撤去され、跡地に大阪城ホールが建てられた。江戸時代、この付近一帯は「御蔵曲輪(おくらくるわ)」呼ばれ、年貢米などを備蓄する幕府の蔵が立ち並んでいた。

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2-1-9.大阪社会運動顕彰塔【おおさかしゃかいうんどうけんしょうとう】

この顕彰塔は日本民族の真の歴史を創造した、労働者・農民らが幾世紀にわたり、支配の圧政に抗して生活と権利を守り、社会解放をめざして闘いつづける歴史の塔であります。

有史以来敗戦まで支配者は自由・平等・解放をねがいもとめる民衆のあらゆる社会解放運動を反逆者・国賊とそしり、弾圧してきました。先駆者たちはその激しい嵐の道を身命を賭けて、窮迫に耐え、抵抗し闘いぬき、ために多くの先覚者は拷問、奸計により獄死・病没し雄志むなしく犠牲となりました。

その尊い偉大な功績を顕彰し、その崇高な遺志を伝承、後続世代のわれわれが、大衆とともに真の自由・解放・平和をめざして闘い進むことを宣誓する塔であります。

この塔は、1960年大阪地方統一メーデー大会で決議され、1966年大阪のすべての労働者・農民・革新政党・民主団体が有識・有志の協力のもとに総結集し、その拠金によって建設され、1970年11月竣工・序幕祭典し、以来毎年10月15日合祀祭典を挙行します。

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2-1-10.算用曲輪(杉山)【さんようぐるわ すぎやま】

 玉造口の南側一帯は、豊臣時代から「算用曲輪」「算用場」などとよばれていた。名称の由来は、秀吉による大坂城築城時に賃金などの計算(算用)が行われた場所だったからとも、また大坂城に納められた年貢や金銀などの計算が行われていたからともいわれている。江戸時代、ここは大きな杉の大木がそびえる小山となったため「杉山」とも呼ばれるようになり、大坂城を仰ぎ見る行楽地として多くの庶民が集い、親しまれた。

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2-1-11.城中焼亡埋骨墳【じょうちゅうしょうぼうまいこつふん】

 慶応4年(明治元年、1868)1月、明治維新によって旧幕府が本拠としていた大坂城が新政府軍に引き渡されるに際し、これをいさぎよしとしない幕臣たちが、城内に火を放ち自害したという。新政府軍の主力だった薩摩・長州両藩の有志たちは、彼らの遺骨を埋葬し、武士の鑑とたたえて、同年7月にこの石碑を建立した。のちにこの碑は「残念塚」・「残念さん」とよばれ、どんな願いもかなえてくれる神様として人々の信仰を集めた。

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2-1-12.城南射撃場跡

明治維新後に大阪城を管轄した陸軍によって設置された実弾射撃の訓練場跡地である。大阪城南外堀の外縁部にあたるこの付近から南にかけての一帯は、幕末に設けられた調練施設「講武所(こうぶしょ)」の跡地を引き継ぐ練兵場であり当初の射撃場は練兵場の一部だったと考えられる。昭和7年(1932)には、それまでの露天を改め、コンクリートでおおわれた東西に長い巨大なトンネル式の専用施設がつくられた。第二次世界大戦後は陸上自衛隊の射撃練習場として使われたが、昭和43年に撤去された。

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南外堀と南側の観光バスの駐車場の間にひっそりあります。

2-1-13.教育塔

昭和9年(1934)9月21日に日本列島を襲った室戸台風は、午前8時ごろに暴風や高潮が大阪を襲い、未曽有の被害をもたらした。特に児童生徒の多くが学校内で犠牲となり、またこれを救おうと奮闘した教職員も命を落とし、社会に深い悲しみを与えた。これを機に同11年、不慮の災害や事故によって亡くなった教育関係者や児童生徒の霊をなぐさめるために設けられた施設が教育塔である。外観は崇高な教育精神をあらわし、正面にはめこまれた2枚のレリーフ画は、子どもたちに対する教育者の情熱あふれる姿勢とひたむきな愛情をあらわす。

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2-1-14.ラジオ塔

日本におけるラジオ放送の黎明期、ラジオの普及を目的に各地の公園や広場などに設置された大衆向けラジオ聴取施設をラジオ塔という。大阪城公園のラジオ塔は昭和13年(1938)の設置で、大阪市内では天王寺公園昭和5年、全国初)・住吉公園(昭和8年)に続く。コンクリート製で、屋根は灯篭に似た宝形造【ほうぎょうづくり】、胴部は角柱形である。スピーカー収納部の窓は四角でなく矢羽形となっているところが特徴で、鉄格子もV字である。ラジオ塔は全国に広まったが、第二次世界大戦後は小型ラジオが普及し、やがて歴史的な役割を終えた。

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2-1-15.生国魂神社お旅所跡【いくくにたまじんじゃおたびどころあと】

 生国魂神社の歴史を文献資料でたどると、「日本書紀孝徳天皇即位前期(六四五)に「生国魂社の樹をきりたまふ・・・」とあるのが初出であり、これは難波宮造営のためと考えられている。また「天文日記」(1436~54)の記載からも、大坂(石山)本願寺に接して生国魂神社のあったことがわかる。難波宮や大坂本願寺はここ大阪城の近くにあったことが知られており、生国魂神社が古くよりこの辺りに祀られていたことがわかる。
 その後豊臣秀吉は、大坂城の築城に際して天王寺区生玉町の現在地に移築した。当時大坂城大手門は、生玉門と呼ばれたという。
 この「お旅所」は昭和7年(1932)に新築されたものであり、夏祭りの渡御祭に用いられた。

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2-1-16.大手前の馬場

大阪城の正面を大手口といい、大手前と呼ばれる手前一帯は江戸時代「馬場」と呼ばれていた。範囲は上町筋の西、今の大阪府警察本部や大阪府庁の敷地付近にも及ぶ。馬場は小高い丘のある芝生の広場で、大坂城在番の部隊が交代する際の駐留場所として使われたほか、市民に開放され憩いの場所となっていた。幕末には軍事的緊張が高まり、同地に土塁が築かれたり兵舎が建てられたりしている。明治維新を経て大正13年(1924)、大阪市は陸軍からこの付近一帯を借り受けて大手前公園を開設した。これが現在の大阪城公園の出発点である。

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1.大阪城の歴史

 2-1.外堀の外

 2-2.外堀

 2-3.二の丸への出入口と二の丸

 2-4.西の丸庭園

 2-5.内堀【うちぼり】

 2-6.本丸への出入口と本丸

 2-7.大阪城天守閣

中之島1970年を歩く

概要

大阪市が「いちょうカレッジ」というものを開催していることを、区役所に置いてあるパンフレットで知りました。

 今回は第4回「中之島1970年を歩く」。

大阪市役所

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現在の市庁舎は4代目。

大阪城内に「豊國(ほうこく)神社」という神社がありますが、以前は、大阪市庁舎と大阪府立図書館の間にありました。その後、1961年に大坂城に移され今に至っています。

大阪府立図書館

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予備校時代にはお世話になりました。当時は、夜になるとたこ焼き屋さんのトラックが図書館前に来ていて、毎晩、そのお店のお兄ちゃんとお姉ちゃんとたわいもない話をすることで元気をもらっていました。あのたこ焼き屋さんは今どこに?

中央公会堂

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中に、「ソーシャルイートAWAKE」というレストランがあります。オムライスとワインがおすすめのお店。

日本銀行

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大阪市役所と御堂筋を挟んだ場所に。東京駅の設計も行った辰野金吾の設計。イオニア式の柱を持つバロック調の建物。

駅逓司大阪郵便役所跡

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以前は、今では滅多に見ることがなくなりましたが、1円切手の肖像画前島密」が郵便制度を作ったときに大阪の郵便局がここに建てられました。「駅逓司大阪郵便役所跡」の碑が残されています。

クスノキといちょう

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たまたま開いている門の中を覗くと右に見えるのがいちょう、左に葉っぱしか映っていないのがクスノキクスノキは樹齢百年、いちょうは樹齢200~300年と言われ、江戸時代以前からの年代物。いちょうは、島原藩武家屋敷に植えられていたものとのこと。

西横堀川

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阪神高速の左が環状線、右が池田線。なぜここに阪神高速が通っているのか?

実は昔、ここに西横堀川が流れ込んでいたのです。高速を作るときに、建物の上に作るのは制約が多いため、できるだけ川の上の空間を活用するのが近道。なので、西横堀川の上に阪神高速を通しました。

東横堀川は今も残っていますが、西横堀川は埋め立てられたので今は石碑のみ。

フェスティバルホール

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フェスティバルホールの赤絨毯。

 大阪ビルヂング(通称ダイビル

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大正14年(1925年)に建てられ、平成25年(2013年)に建て替えられたましたが、中央玄関の半円アーチの上の「鷲と少女の像」は今も残されています。

ダイビルサロン”1923”

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ダイビルの中には「ダイビルサロン”1923”」というスペースが一階にあり、自由に入ることができます。部屋の中には、ダイビルだけでなく、中之島の歴史を知ることができるタッチスクリーン式のアーカイブが置かれているので、中之島の歴史に興味があるなら、是非のぞいてみてください。

 PARIS-h(パリ・アッシュ)

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おしゃれなパン屋さん。入り口はビルの外にあるのでご注意!

大阪市立科学館

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昔、四ツ橋にあった大阪市立電気科学館が装いも新たに1989年に建てられた。2011年にリニューアルされたプラネタリウムは有名。

国立国際美術館

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下記の展示物は、無料で鑑賞が可能。

 ジョアン・ミロの陶壁画 と アレクサンダー・コールダーの「ロンドン」 

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ヘンリー・ムーア「ナイフ・エッジ」

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無造作に置かれており、触ることも可能です!

大同生命保険株式会社 「あさが来た」

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NHKの朝ドラ「あさが来た」のヒロイン広岡浅子は、三井家から豪商の加島屋に嫁ぎ、初めて自分の居場所を見つけ、波乱万丈の人生をスタートします。

加島屋の再建を手始めとして、石炭業に進出、日本女子大学校の設立に奔走し、大同生命保険株式会社を創業します。

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大同生命保険株式会社の中に、「広岡浅子」に関する展示があり、見学することができます。

後書き

昔は、どうしようもない湿地帯中之島一帯ですが、商業の中心として栄えていった痕跡が今もいたるところに残っています。

皆さんも散策してみては?

 

通天閣・新世界をめぐる旅

概要

大阪市が「いちょうカレッジ」というものを開催していることを、区役所に置いてあるパンフレットで知りました。

 今回は第3回「通天閣・新世界をめぐる旅」。

新世界

新世界は1903年の「第5回内国勧業博覧会」が開催された場所。5か月で530万人もの人が訪れました。

敷地の半分が民間に売却され、1912年に「新世界」が誕生しました。新世界の中には遊園地「ルナパーク」が作られ、その入口に土台は凱旋門、その上はエッフェル塔の塔「通天閣」を作りました。

※豆知識)西成の「ドヤ街」の「ドヤ」って? → 「ヤド」の反対

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その後火災にあい、1943年には解体されましたが、1956年に再建され今に至っています。塔の高さは103mでしたが、神戸にできたポートタワーが108mだったため、5mの避雷針を取り付け、現在はポートタワーと同じ108m。(意地の張り合いが面白い。)

新世界市場

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恵美須町方面から通天閣に向かって進むと右側に新世界市場の入り口が。

澤野工房

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新世界市場入口の左側に、「傘とお履き物」の文字と「hand-madeJAZZ」のなんともハイブリッドな看板。元々は「履物屋さん」だったのですが、趣味が高じて「澤野工房」とうJAZZのレーベルまで作り、今では「TSUTAYA」にコーナーができるほどに。不思議なお店です。

肉のさかもと

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新世界市場の入り口右側には「肉のさかもと」。ここで、コロッケやおししいお肉を使ったサンドイッチが食べられますが、裏側には「ビストロヴェー」という洋食屋さんが。この洋食屋さんは、坂本家が経営。なので、お肉は当然「さかもと」のお肉。

市場の上を見上げると

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これらのポスターは、市場の危機を感じた電通のクリエーターが、ボランティアで作った広告。どれもこれも秀逸!

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訳のわからんリュックや、

 

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レトロな看板。

通天閣

 

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通天閣のネオンは「日立」ですが、「松下」にも声がかかっていたという話。通天閣の建設費用が必要だったので、1年300万の10年分先払いという条件に松下は首を横に振り、日立は関西での知名度アップになると考え首を縦に振ったとか。松下幸之助は、後に、大いに後悔したとの話です。

ちなみに、ネオンの色は明日の天気を教えてくれます。白:晴れ、オレンジ:曇り、青:雨、で、雪ならピンク。

天井画

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通天閣の下を歩くときに上を見上げると、色鮮やかな天井画が。

わくわくランド

通天閣の地下には、「わくわくランド」と呼ばれる、メーカーのアンテナショップ(お土産販売やさん)が。

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グリコの「ぐりこ・や」。

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日清の「ひよこちゃんSHOP」。

他にも、森永製菓の「キョロちゃんのおかしなお菓子屋さん」があります。

珍しいお土産がゲットできるかも。

通天閣周辺

ラジウム温泉

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通天閣横には露天風呂から通天閣が見える温泉が。

刃物工房

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通天閣から天王寺公園の方に少し進むと、包丁などの専門店「刃物工房」が。ここのご主人はなんとカナダ人。日本の刃物に惚れ込んで、専門店を出されています。

大衆演劇

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通天閣の近くには、大衆演劇の劇場がたくさんあります。

 

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公演が終わるとお目当ての役者さんと劇場の外で触れ合えるのも魅力。右端の役者さんの背中が少し寂しそう。

「レスカ」「冷コー」

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「レスカ」に「冷コー」、若い人には?

新世界国際劇場

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今でも手書きの看板。貴重品です。

だるま本店

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ご存じ串カツのだるまの本店。2階の窓から大将がにらみを利かせています。

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お店は微妙に軒先を道路にせり出して、そこもお店にしてしまうという浪速のど根性!

ビリケン

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新世界を歩いているとよく見かけるビリケン

Q.ビリケンって何者?

A.アメリカ生まれの幸福の神様

Q.なぜ、ビリケンの足の裏をこするの?

A.手が短いから自分で足の裏をかゆくてもかけないので、足の裏をこするとビリケンンが喜んでくれるから。

Q.なんでビリケンさんが置いてあるお店が多い?

A.ビリケンさんが置いてあるお店は、チェーン店らしい。

懐かしのスマートボール

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今でも現役!

ジャンジャン横丁

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元々は「ジャンジャン町」だったのが、林芙美子の「飯」という小説の中で、「ジャンジャン横丁」と書かれており、そのころから「横丁」が定着したらしい。

「ジャンジャン」は、通りのあちこちから三味線の「ジャンジャン」という音が鳴り響いていたのが由来。

射的

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夜店でお馴染みの射的のお店があったり、

大興寿司本店

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コスパ最高の大興寿司。基本3貫なので、右のほうのお寿司は回転ずしより安い!

千成屋珈琲

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ミックスジュース発祥の店「千成屋珈琲」。3代目のおばちゃんが体調を崩し、一旦、閉店。そこへお店のファンの方が4代目としてお店を引継ぎ今に至っています。

たつ屋

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ホルモンうどん、ホルモン鍋の「たつ屋」。

動楽亭

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隣の「動楽亭」は、桂ざこばが席亭。

動物園前一番街商店街

ジャンジャン横丁を抜け、なにわ筋を渡ると「動物園前一番街商店街」。

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動物園前もつ鍋屋

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超有名なたつ屋より、安い値段でやっている隠れた名店。

自由軒

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創業は1921年の老舗ですが、小奇麗にリニューアルされています。メニューは看板のオムライスを中心としたもの。

不思議な公園

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歩いていると、フェンスで入ることができない公園が。

最近は、入ることができる時間が増えているようですが、そもそも、公園を住まいにされないための対策だとか。なかなかデンジャラスな街です。

この商店街を抜けていくと、あの有名な飛田へと行くことができます。

やはり、新世界はドキドキワクワクがいっぱいの街でした。

                                    以上

 

 

 

                                    以上

 

裏なんば→黒門ミナミをまち歩き!!

概要

大阪市が「いちょうカレッジ」というものを開催していることを、区役所に置いてあるパンフレットで知りました。

 今回は第2回「裏なんば→黒門ミナミをまち歩き!!」。(とは言いつつ、裏なんばはちょっとだけ)

裏なんば

そもそも「裏なんば」ってどこ?

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地図上で黄色のマーカーの通りが裏なんば。

南北に延びている通りが2本。そのうちの西側が「西ウラなんば筋(東道具屋筋商店街)」、東側が「東ウラなんば筋」。

東西に延びている通りは5本。北から「ウラなんばノース(北)通り」「ウラなんば本通り」「ウラなんばサウス(南)通り」「ウラなんば河原通り」「ウラなんばアルサン通り」。

ウラなんばに行く前に、先ずは戎橋筋商店街

戎橋筋商店街

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皆さんご存じの「551の蓬莱」。その北にも、マクドナルドを挟んで「蓬莱本館」があります。この2件の「蓬莱」、創業を辿れば同じところに行きつくのですが、途中で分かれ、今はまったくの別会社。作り方や味も異なる「豚まん」を販売しています。

その南東角には、「とらや商店」と「大寅」。

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「とらや商店」は昭和27年創業の生地のデパート。中は3階までお店が。生地や服飾雑貨満載。

「大寅」は、も一つ古い明治9年創業の蒲鉾の老舗。

その角を東に折れると難波センター街。

難波センター街

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「とらや商店」の横が「シバチョウ」。

「シバチョウ」は「大寅」よりさらに古く、明治3年ごろの創業とのこと。お店で買ったお酒を飲める角打ちで有名。看板に年期が入っています。

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 東に少し進むと、「精華通り」とクロス。「精華通り」の南側には創業昭和21年の「重亭」。昔ながらの洋食屋さん。

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もう少し東に進むとカレーの「自由軒」。明治43年創業。「夫婦善哉」の著者、織田作之助作「夫婦善哉」の中にも登場する有名なカレー。船場にも「せんば自由軒」がありますが、元を辿れば同じルーツ。それぞれが「元の味を受け継ぐ」とホームページで謳っています。

もう少し進むと、千日前商店街とクロス。その先が「ウラなんばノース(北)通り」。ここではウラなんばに行かず、千日前商店街を南に。

千日前商店街

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 元禄寿司は、回転ずしの元祖。昭和33年に東大阪1号店で回転ずしを始めたそうです。

元禄寿司もそうですが、なんば近辺のお店には立体的な看板のお店が多い。理由は諸説あるようですが、ブラタモリでは、江戸時代、道頓堀沿いにあった芝居小屋では、立体的な看板で芝居の内容を表現してお客さんを呼び込んでいたとのこと。立体看板はその名残との説が紹介されていました。 

「いちびり庵」を南西(なんば南海通り)にちょっと寄り道。

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 創業対象8年の波屋書房。ここは、料理書の専門店。昔は普通の本屋さんだったそうですが、料理書専門にしたところ、多くのユーザーから支持されています。

千日前商店街に戻り、少し進むと

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最近、世間を賑わせている吉本の聖地「なんばグランド花月」。

なんばグランド花月」を左に見て、もう少し進むと「千日前道具屋筋商店街」。

千日前道具屋筋商店街

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 食品サンプル専門店があったり、

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千日地蔵通横丁があったり、

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包丁専門店、「堺一文字光秀」があったり。

一旦、なんさん通りまで出て、一本東の通り「西ウラなんば筋」を北に。

西ウラなんば筋

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吉本の芸人さん御用達「千とせ」

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はらみ丼で列ができる「DININGあじと」 

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なるみ・岡村の過ぎるTV」でも紹介された、吉本芸人御用達のパン屋さん「シャンピニオン

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今、話題の吉本興業

そのまま北に進むと、「ウラなんば本通り」とぶつかるのでそこで東に。

ウラなんば本通り

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ここには「味園」が。

「味園」という宴会ができるお店を中心に、ビル内には数十のアンダーグラウンドなお店が。

「味園」を左に見て通り、堺筋を越えると黒門市場

黒門市場

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黒門市場は、一時期、お客さんが減り、乾物屋さんなどは閉店の危機だったそう。そんな時、インバウンドの波が。

海外の観光客がバスで移動するときに困るのがバスの駐車場所。大阪城には専用の駐車場があるものの、難波界隈では専用の駐車場がなかったため、堺筋日本橋駅そばに観光バス乗車場所を設定。観光会社は、その乗車場所近辺の観光場所として黒門市場にスポットライト当て、そこから黒門市場のインバウンド化が急速に進んだという話。

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何千円もする魚介類や「うに」が飛ぶように売れ、お土産として乾物もバカ売れ。そのお陰で、黒門市場は復活。

黒門市場の由来

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昔、堺筋に面したところ(今の「大丸白衣」のあたり)に「圓明寺」という寺があり、そのお寺の門が黒かったため、「黒門市場」と呼ばれたことが起源の模様。今はその痕跡も無いため、市場の南側入り口を黒い門にしています。

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黒門市場で上を見上げると、大きな蟹や蛸が吊るされています。当初は、何年かおきにローテーションをする予定だったようですが、ローテーションは想定以上の作業が必要となり、結局、初めのままの位置で今に至っているようです。

                                    以上